第三話

第三話 『一人さまよう、世界の旅へ / 政治~26歳のカオリ』

1 旅のはて

 私は、帰国以来、いつかは世界をめぐる旅に出てみたいと願っていた。ちょうどいい機会が訪れたわけだ。
私はパリとベイルートとイスタンブールにヒロシに連れていかれた経験があるだけで、世界について何も知らなかった。何も知らない方がいい。最初は適当にメキシコに行ってみた。そして、そこから下ってコロンビアに行き、ペルーに行き、さらにチリに行った。そしてチリから南アフリカに行き、ウガンダに行き、ケニアに行き、エジプトに行った。どの国でも、首都の周辺の小さな町の安ホテルに泊まり、特に目立ったことは何もせず、ボーっとしてすごした。
もちろん、仕事なんてない。もってきたお金を使い果たしたら旅もお終い。言葉はまったくわからないから、友だちもできない。ずっと孤独でいたかったから、それでよかった。どんな縁もつくりたくなく、同じ土地に長居することは避ける必要があると本能的に感じていたので、どの町も長くて1ヶ月の滞在だった。観光もしないので、新しく得た知識もほとんどない。基本的に安ホテルの周辺での行動だけで、近くのレストランで食事を適当にすませ、カフェに坐って通行する人びとを眺め、何もせず、心のなかではずっとひとつのつながりを考えていた。私の二度の奇妙な男体験が意味するものは何だろう。一体、私のお父さんは、家を出て、異国の地で何を考えていたのか。何をしていたかも不明のままだからそれも知りたかったけど、何を考えていたのかについてはほんとうに知りたかった。そして、私はこれから何をしたらいいのだろう。
私は、ほぼ一年間、こうしてまったく孤独で非生産的な生活を何の縁もない外国の町ですごした。母には以前と同じように1ヶ月に一度だけ無事でいるとハガキを出した。それ以外には誰にも連絡せず、誰とも親しくならず、完全な異邦人になった。もう私は立ち上がれなくなるかも知れないという恐怖にも襲われたが、旅をやめなかった。この旅が私をどこに連れていくことになるのか。まったく無駄に終るのか、何もわからなかったけど、こんな感じのままどこかにたどり着くことを漠然と期待していた。
エジプトからイタリアに行き、スペインに行き、そしてフランスに行ったとき、ヒロシに連れて行ってもらったパリの美術館に何となく立ち寄った。そして、美術館のブックショップで、あの時ヒロシがこれは面白い本だと勧めていたトルコ人のオルハン・パムクの小説と、面白そうな洞窟の本を見つけた。もちろんどっちも日本語訳。オルハンの小説はお父さんの愛読書で、旅の最後の地はイスタンブールと決めていたので、思い切って『イスタンブール』というタイトルの本を買った。洞窟の本は、イスタンブールから離れたバファ湖の近くに広がる洞窟についてのガイドブックで、最近世界中で話題になっていると本の帯に書いてあった。手に取って開いて見てみると、学校の教科書にのっているおなじみの動物たちの絵とは様子が違い、何だか古代の人間が描いた絵とは思えないものがたくさんあった。描かれているのは動物だけではなく、線で描かれた人間の絵も多かった。筆致がポップな感じで、洗練されている。現代のイラストレーターが描いたといっても信用されそうなセンスだ。なぜか私は惹かれた。もともと洞窟の暗闇には興味があった。だからこの本も買った。イスタンブールに行ったついでに、私もこの洞窟に行ってみようと思った。
そして、私が「三番目の男」に出会ったのも、その時に泊まったバファ湖の夜のホテルだった。男はトルコ人のようで、ホテルのなかの小さなレストランの私の隣のテーブルに坐り、そこから見える湖を見たり、いまでも落ちてきそうな星々に満たされた空を見上げたり、なぜか私を見てじっと見つめたり、一人で食事をしていた。私を誘う気なのかとも一瞬思ったが、沈黙のままだった。男は、美しい顔をしているのに、目の周囲だけは黒ずみ、何ともいえず悲しそうな目をしていた。一体何を見てきたというのか。その目つきが、私の記憶に残った。もちろん、その時はその男について何も知らないし、何の関係もなかったので、私もただチラチラと見返していただけだ。ただつよく印象に残っていたので、イスタンブールで再会した時にはものすごく驚いた。バファ湖のホテルで見かけた男だと、すぐにわかった。人間は、こんな風に、ひと目見ただけで何かしら強烈な印象をもつ相手にめぐり合ったりするものなのだ。