第5話・第6話

第5話『異界の住人たち~キベ・タナ・エレナ』

僕は、また新・国連の会議の中で居眠りを始めた。退屈になると、疲れがドット出てきて、目を開けていられない。だから、会議での応答はモリスに任せ、僕は夢の中に入り、いつもの夢の続きを見る。
夢の中へ。これが僕には最高の楽しみ。何よりの休息だ。

何だろう?
何か見える。

僕の仮想メガネには最近いろんなものが映るようになった。それが僕の心の中の風景であることは間違いないけど、実際に起きる事とどれだけリンクすることになるのかはわからない。面白い夢でも現実と関係をもたないこともしょっちゅうだし、つまらない夢が現実になることだって多い。でも構わない。とにかく僕はその続きを見たいと思う。

世界中の森が燃えている。
僕の周囲も火の粉で真っ赤に染まりはじめた。
見上げると、空を動物たちが走りまわっている。
そこには見たこともない動物たちも混じっている。
先頭を走っているのは、おそらく地上から早々と姿を消した種類の動物たちだ。
翼をもつ恐竜たちもいる。
オオカミたちもいる。
うさぎや鹿たちもいる。
それにしても、何てみんな元気なんだろう。
人間たちもその中に混じって走りはじめた。
大昔の人たちも、いまの人たちも、一緒になって。
男も女も、ボロボロの原始服だったり、最新のスーツやドレスだったり、バラバラでおかしい。
みんな必死に逃げ惑っているのか?
それにしてはみんなおだやかな表情なのはなぜだ?
よく見ると、動物も人間もとても幸福そうな雰囲気だ。
新しい引越しなのか?
新天地が見つかったのか?
これは痛ましい戦争や事故ではないのかも知れない。
何か素晴らしいことが起きているのかも知れない。

いよいよ、空では、オーロラのショーのように、何層もの空間が登場しては互いに交錯しはじめた。何がはじまるんだろう? 聴いたこともない音楽も聞こえはじめた。一つの空間ともう一つの空間は、凸の空間と凹の空間のように、幾何学的には対立する矛盾した空間に見える。しかし、矛盾した空間同士が一組のペアーをつくりどこかに消えていく。何だか楽しそうだ。二人だけの世界をつくる男と女に似ている。こんな光景を見たのははじめてだ。

美しい。
何だろう、この懐かしい感覚は。

しかし、懐かしい感覚がする時は注意した方がいい。どこか知らないところに連れて行かれたりする前兆かも知れない。そうやって、多くの人たちがどこかに消えてしまったことを僕は知っている。
あれ、向うから誰か歩いてくる。僕に近づくたびにからだの周りにシャボン玉のようにいろんな小さな空間をつくり出して、キラキラさせている。僕に向かってくるから、僕に用事があるのか?

誰?
知ってる人?
僕をまっすぐに見ている。
えっ、何? 驚いた!
彼女なの?
彼女だ。
僕の懐かしい人。

僕には、すぐにわかった。何年たっても忘れない。僕を見つめる目はあの時と同じ。僕を惑わせてきた美しい目だ。でも、いまさら僕に何の用があると言うのだろう? 僕を捨てたのに。僕から黙って立ち去ったのに。別の男と平和な家庭を築いて子供までいるのに。

ここで、僕の目が覚めた。この夢は、いつのもの夢とは違う。僕が見たい夢の続きではない。せつない夢だ。昔の死んだ恋人が夢の中で僕に会いに来るなんて。不吉の知らせか。よい知らせか。僕は、何か大きな出来事が始まる前には必ずこんな夢を見てきた。
夢から覚めたのは、会議で僕の発言が求められ、モリスが答えることが出来ない話題になったからだ。会議は新・国連の惑星調査隊が主催している。それで僕がモリスに起こされた。話題は、最近の異界の動向とその特徴について。僕が今手に入れた範囲の情報を提供して欲しいとの、議長からの要請だった。
僕たちの観測によれば、スペーストンネル少年少女学校の生徒たちと時を同じくして、一部の異界の子どもたちもまた、「側頭葉」を肥大化させ始めている。現在では、この情報が異界についての最大の話題になるだろう。

膨らんだ側頭葉をもつ子供たち。

これが、地球と宇宙の「ニュー世代」の共通の特徴となりはじめた。なぜだ? もちろん、何か大きな意味があるに違いない。僕たちは急いでその点について考えはじめている。
僕たちの『ヒト宇宙化計画』では、地球再生と正しい宇宙進出は、異界の住人たちとの協同抜きには成立しないと考えている。僕たちが考える異界の住人たちとは、地球で絶滅種になった動物たち、死者たち、それと異星人の大別して三者のことだ。
まず第一に、未来への正しいステップは、過去への回想からのリターンとして与えられる。従って、その過去に属する失われた動物たちと死者たちとの関係の再構築が重要だ。
第二に、宇宙には多くの異星人が存在することが確認されているわけだから、人間が宇宙に進出する時には、彼らとの間で綿密な利害関係の調整が必要になる。現在までの宇宙進出のほとんどが惨めな失敗に終っているのは、この利害調整を怠ったためだ。僕たちはそう考えている。
そして、これらの異界の住人たちとの間に新しい調和関係を結ぶためのキーになる存在が、地球と異界の子供たちであるとすれば、僕たちは地球の子供たちだけでなく、異界の子供たちにも注目する必要がある。
僕たちは、僕たちが辿り着いた仮説から、スペーストンネル少年少女学校で「姿勢構築訓練」を実施してきた。その結果、一部の優秀な生徒たちが、側頭葉を肥大化させ始めた。一方で、同じ時期に、異界の子供たちの一部も側頭葉を肥大化させているという情報が入ってきたわけだ。異界の子供たちも側頭葉を? 偶然の一致か? 異界の子供たちも 「姿勢構築訓練」を始めたのか? 誰もがそこに重要な関連があると推測を始めることは自然なことだ。僕たち地球人の観点からしても、地球再生と正しい宇宙進出を可能にする動力が「膨らんだ側頭葉をもつ少年少女パワー」であるということになるなら、それは僕たちが採用した仮説の正しさを証明する事例として、まさに理に適っていることになるのだ。

1 境界

ある日、僕がスペーストンネルの中で遊んでいたら、「ネットロボット=モリス」がとる姿勢に応じてスペーストンネルが変形することに気がついた。とても微妙な変形なので、最初は気に留めていなかった。
しかし、よく見ていると、スペーストンネルの中には、凸と凹のように、たがいに矛盾する二つの曲面が接続されている「境界」が生まれたり消滅したりしていることにも気がついた。この「境界」が異界への出入り口になるのではないかと、フジイ博士が暗示していた。上達すれば、スペーストンネルの中にこの「境界」をいくつも見つけることができるので、僕は注意してフジイ博士が言うことを検証してみることにした。その結果、次のことがわかってきた。

つまり、異界の住人たちがスペーストンネルに姿を現わす時は、それぞれ独特なワープする空間を形成するために、スペーストンネルの形状を微妙に歪めるのだ。その歪みが「境界」なのだ。「境界」を介して異界の住人たちが出現するとは、何とユニークな方法だろう。そして、彼らは、優れた者ほど、独力でこの「境界」をつくり出す。その秘密が、彼らがもつ独特な「姿勢形成力」なのだ。彼らは、自分が会いに行きたい存在に応じて、自分の姿勢を変形させる。その分だけ、スペーストンネルをよけいに歪めることになるというわけだ。
僕がこの秘密に気づいたのは、若い頃から空間の質の変化に敏感だったことと、フジイ博士がいろいろ教えてくれたからだ。人間の側でも、経験を積み、「境界」を発見できる感性を磨けば、その歪みを形成できるだけでなく、その歪みに出現する彼らとの出会いも予想できるようになる。また、その歪みの性質を判別できれば、それがどのような種類の異界の住人たちであるかも理解できるようになる。僕は、生徒たちとの姿勢形成の実験を通して、かなり詳しくその辺を分析できるようになった。それは大変にスリリングな体験だ。

一つの「境界」を発見した時に、「魚の姿勢」を形成してくぐり抜けたら、「魚の世界」に侵入した。
「牛の姿勢」を形成してくぐり抜けたら、「牛の世界」に侵入した。

しかも、この「境界」では、僕が人間のまま「魚」や「牛」に出会っているのではなく、どうやら僕が「魚」や「牛」に近い存在になっている。僕が変化するのだ。そのため、「魚」や「牛」の気持ちがダイレクトにわかる気がする。
僕が、生徒たちの中でもこの点で特にノアに注目したのは、彼女が最初から同じようなことを言っていたからだ。ノアは小さい頃からスペーストンネルなしでも、その擬似的体験を繰り返していたようだ。彼女が「境界」に敏感なのは、その経験があるからだ。
したがって、また、スペーストンネルも、誰にとっても一様な通路ではないということが理解できる。スペーストンネルがネットロボットがもつ知的レベルと運動レベルに応じて形成されるため、その能力差に従い一通りではない多様なスペーストンネルの層が、ひとつのスペーストンネルの内部にも錯綜し、重なり合うことになる。つまり、ここでは、僕が体験し見るものを、同じスペーストンネルに存在する他の人間が同じように体験しているとは限らないのである。

2 異界の住人①~キベ

僕が、クローンサルのキベに出会ったのは、スペーストンネルの中で「サルの姿勢」をとって「サルの世界」に侵入した時だった。
キベは17歳。動物と人間が半々。17歳にしては幼い感じがする。中東でもっとも再生医療が進むベイルートの大学病院で誕生したという。多分、僕の友人の病院だ。
キベの手は人間と同じだったが、足を見ると、何と足の親指も人間の手の親指と同じだった。キベは、お母さんサルの子宮に遺伝子改良された人間の男の精子が挿入されて誕生した。いま世界の医学界でもっとも注目されている人工動物のひとつだ。しかし、昨年、突然家出したということで、世間でも話題になっていた。
キベの話しでは、誕生に直接関係したベイルートの一人の研究者の家で6年間、試験的に「家族同様」として「教育」された後、脱出して一人でスペーストンネルに住むようになったという。その教育には感謝もしているが、それは人間界の価値観の押しつけのため、ガマンできなくなったという。

僕が最初にキベに会った時、キベはすごくニコニコしていた。初対面でいきなり「あなたは僕のお母さんを知っている人でしよ? そんな気がしたから、あなたに見つかっても逃げなかった」と言われた。ニコニコしているけど、何か事情がありそうだ。僕は、キベの足の指について聞いてみた。
「ねぇ、君の足の親指も人間の手の親指と同じだけど、どうしてか知ってる?」
途端に、ニコニコしていたキベの顔が暗く沈んでしまった。会ったばかりなのに、まずい質問だったみたいだ。
「詳しいことは何も知らないよ。でも、お父さんから聞いたことがある」
「君のお父さん?」
キベがしぶしぶ話してくれる。
「僕の誕生は人間の進化の方向を占うためのもので、足も手になったら四つの手で僕がどんな新しいものを発明するのか、知りたかったらしい。僕はお父さんのお家で、人間がつくったたくさんの道具がある部屋で毎日生活していた。それをいじって遊ぶのが僕の日課だった」
「なるほど。これまでの道具は、二つの手と二つの足をもった人間用だから、足も手になったら、人間がつくった道具を組み合わせて、君が何か新しい種類の道具をつくり出すかも知れないね?」
「でも、僕はそんなことに興味がない。僕はお父さんが好きじゃない。僕を利用することばかり考えていたから。それより僕をサルに戻してと頼んだのに、聞いてくれなかった」
「それはもうできないよ」
「でも、人間が半分とサルが半分の僕をつくるなんて、どうして人間はそんな勝手なことをするの?」
「ごめんね。一部の人間たちが人類の進化を急いでいるんだ。それで君を誕生させてしまった」
「だから、僕は人間が好きになれない。人類の進化なんて僕に何の関係もないよ。人間は自分たちのことしか考えてないね」
「たしかにそうだね」
「でも、あなたは人間なのにサルの姿になって僕に会いに来てくれた。僕はそんな人間にはじめて出会ったよ。あなたは悪い人じゃない」
「有難う。そうだといいけどね。ところで、君にはお父さんがいたの?」
「お家のお父さんが、僕のお父さん。そう言われてきた。でも、僕はお父さんが嫌い。お父さんのお母さんという人も、すごく優しかったけど信用できない。だから、僕は、行方不明と聞かされてきた僕のお母さんに会いたくて家出したんだ。どんな理由でお母さんがお家からいなくなったのか、自分で知りたい」
可哀相に。キベは、お母さんがキベの誕生後にすぐ死んだことを知らされていないようだ。僕からはとても話せそうもない。
キベの話しを聞いても、彼は人間界に奉仕するつもりはないし、動物界に所属したがっていることがよくわかる。キベは、「境界」の向こう側では人間の顔をしたサルで、こちら側ではサルの顔をした人間。できればサルの顔だけになりたいようだ。ただ、この1年はまったく現実に戻っていないため、からだが透明化を始めている。ただ、特徴は、それが僕が探していた特長なわけだが、耳の上の側頭葉を膨らませている。
キベは、もう現実には戻りたくなく、
異界に行って純粋なサルになりたい、と泣いている。
でもキベにはどうすればそれが出来るのか、その方法がわからない。
キベの話しからは、キベを誕生させてしまうような一部の酷い実験も含め、動物たちが体験してきた「動物の悲惨な物語」が伝わってくる。僕としても、人間が獲得した技術の影の部分について真剣に考えざるを得ない。
大昔、はじめは人間が動物を恐れていた。しかし、人間が道具を発明してから、その関係は一気に逆転した。人間が逆に動物を攻撃し、捕獲するようになった。そして、動物たちの支配者として君臨するようになった。
そのこと自体、いいのかわるいのか、僕にはわからない。弱いものが強いものに勝つための方法を生み出すことが悪いとは思えないからだ。ただ、最近の100年において、人間が自己の罪として認識しはじめた地上の生態系の破壊とは、まさにこの瞬間から始まったのだ。この問題は複雑で、簡単に解決できるとは思えない。
人間は、自分たちの種の維持と発展のために、動物たちを過剰に殺して食べはじめ、結果的に生態系を破壊することになった。動物には生態系を破壊することなどはできない。その中におとなしく納まっているだけだ。人間だけが生態系を破壊する。そして、いつ、人間は、自分たちの人口の過剰を意識し、悩むようになったのか? それはせいぜいこの100年や200年のことにすぎない。それまでは何の反省もしていない。現在の地上の人口は100億人。このような人口の過剰こそ、地球環境破壊の最大の原因の一つとして数えられている。
しかし、人口爆発の原因は何なのか? もちろん、動物の過剰な摂取だけがその理由ではないだろう。全体としては、必要な生存環境が整ったことによっているわけだ。しかし、その大きな一因であることも明らかだ。動物の過剰な摂取が過剰に性欲を刺激することに結びついていることは、誰にも想像しやすい。世界には、性欲を抑えるための肉食を禁じる風習や宗教もたくさんある。そして、現在、地上には、先進国を中心に、動物の肉を食べすぎて「肥満大国」に苦しむ国がいくつも現れている。「倫理」と言うなら、これほど「倫理」に反することはないだろう。先進国には肥満の人間が溢れ、アフリカはいまだ病気と飢餓に苦しみ栄養失調の子供たちが毎日たくさん死んでいる。「倫理」を重要視するキリスト教を中心とする国にこの「肥満大国」が多いことは、何とも皮肉なことだ。僕自身は、いわゆる「食べすぎる身体」が、人口爆発と地球環境破壊の真の犯人ではないかと考えている。
そうだとすれば、人間も動物たちと同様に、生態系の内部でおとなしくしていた方がよかったのではないか? そうすれば人間はもっと動物に食べられ、異常繁殖することもなかったかも知れない。人間は技術の力を、動物への攻撃力として使うのではなく、過敏すぎる恐怖心を克服したり、食べられても痛くないと感じる新しい方法を開発すべきだったかも知れない。動物は自分が他の動物に食べられる時、苦痛を感じることなく死ぬために、エンドルフィンなどを分泌する。人間もこういう分泌物を開発すべきだったのではないか?
動物から見ても、その時が大きな分岐点になったのではないか? それ以前は同じ生態系を構成する仲間のようだった人間という存在が、ある日突然独立宣言をして、勝手に生態系を離脱してしまった。いままで見たこともない武器を携えて、自分たちを攻撃するようになったのだ。何も知らないうちに、攻撃する側からされる側へ、立場が逆転した。
その時、動物たちはどう感じただろうか? いま動物たちは何を望んでいるだろうか? 動物と人間の関係はどうあればいいのだろう? この点について僕がキベにいくら聞いても、はっきりした答えは返ってこない。キベはしきりに「わからない」と言う。しかし、いつもはニコニコして快活にふるまっているキベが、その時だけ悲しそうな顔をすることも事実なのだ。キベはまだ子供だから言葉では言えなくても、半分動物として、半分人間として、独特な立場の表明ができるのではないか。少なくても、キベには「ある思い」があるようだ。
それにしても、僕はキベに出会うことで、人間が動物に対してもつ負の遺産を知った。そして、動物の「心」と交流するには僕もその動物と同じ姿勢をとる必要があるという、面白い事実も確認できた。だから、その姿勢を取れば、スペーストンネルの「境界」が発生している場所で、彼らに出会えるわけだ。それは、有史以来の動物史を、「姿勢の創造」により辿る旅である。僕の夢には、なぜいつも翼のある恐竜が出てくるのか? それも少しわかってきた。翼のある恐竜が、おそらく僕にとっては動物の進化の新しい方向を暗示する存在なのだ。
僕が尊敬する自閉症の動物学者テンプル・グランディンによれば、人類進化のために最大に貢献した動物はオオカミではないかと言う。その理由は、内向するクセがあった人間に生存に必要な社会生活の方法を教えたのがオオカミであったこと、また、オオカミを飼っていた原始人だけが存続し、飼っていなかったネアンデルタール人は絶滅しているからだ。しかし、最大の恩人だったかも知れないそのオオカミもいま、絶滅種として、ほとんど地上から姿を消そうとしている。
僕は、キベともっと仲良くなりたい。僕がキベの悲しみを取り除くことは出来ないが、キベが人間界と動物界に対して新しい架け橋の仕事を果たせる立場にあることだけは、ちゃんと伝えることができる。それでキベが喜ぶかどうかは、僕にはまだわからないけど。

3 異界の住人②~タナ

同じように、ある日、僕がスペーストンネルの「境界」で遊んでいたら、どう見てもこの世の人間とは思えないタナに出会った。それは、タナが生きた人間とは違う雰囲気をもっていたし、スペーストンネルの内部では僕たちの影ができるが、タナにはそれがなかったからだ。影が映らない存在なんてバンパイアとか死んだ人間とか、要するにこの世のものではない存在だ。
でも、よく見ると、タナは、翼竜と同じように、僕の夢によく出てくる少年だった。僕は夢の中でタナを知っていた。この調子でいけば、僕はもうすぐ翼竜にも会えるのかも知れない。
タナは以前、夢の中に出てきて、僕が探していた本がパリの国立図書館にあることを教えてくれた。仕事のついでに試しに行ってみると、本当にそこにあった。だから僕はタナを特別な存在として信頼した。そして、別の日に古い写真集を見ていたら、タナが載っていた。何と、タナはこの記録によれば1850年にチェコスロバキアのプラハで死んでいた。タナは19世紀の実在の人物だったのだ。当然、僕は、大変に驚いた。そして、それ以来、僕は死者の世界の存在を信じるようになった。僕だけではなく、こんな経験をすれば、誰だって信じるしかなくなるだろう。
僕がタナに出会った日は、タナの方で用事があるということで、僕に会いにきたという。17才で死んで以来、年齢はそのままで止まっているそうだ。そして、プラハで有名な人形使いの弟子をしていたそうだ。その職業のせいもあり、スペースチューブロボットやネットロボットを人間の分身として操る僕たちの仕事に興味があったという。そういえば、僕がパリの国立図書館で探した本も、西洋の人形についての文献だった。
そして、何の用事かを聞いて、僕はもっと驚いた。タナが、僕が大学生の時に死に別れになった恋人・メグミのところに案内するという。タナは僕の心の秘密も知っていたのだ。
実は、僕には大きな負い目があった。当時僕と彼女は、大学四年生になったばかりで同じ文化人類学科に所属し、恋人同士だった。彼女は奔放な性格で、アタマもよく、おまけに美人だったので人気があった。ある日、僕は教室で、僕を見つめるつよい視線を感じた。振り向くと、隅の方にメグミが坐っていて、僕をじっと見ていた。僕は彼女のその目にすっかり魅了されてしまった。後で聞いたら、ただ僕が気になったのだという。それが僕たちの出会いだった。メグミも夢の話しが大好きなことがわかり、僕たちはすぐに仲良くなり、毎日一緒にいるようになった。ある日、僕は彼女に、アフリカのブードゥー教や呪術について詳しい先生を知っていたら教えてと頼まれた。そのテーマで卒業論文を書きたいという。それで、それが僕の好きな分野の一つでもあったので、お世話になっている少し変わり者の別の大学の年配の教授を紹介した。しかし、よせばよかったのだ。
その後、まさかと思ったけど、彼女はその教授ともつき合うようになってしまったからだ。時々、フィールドワークと称し、彼女と教授は国内だけではなく海外の旅行にも一緒に出かけていた。はじめは変人と思っていただけなのに、奇妙な魅力を感じるようになり、教授の好意を拒否できなかったと彼女は言った。教授が誘い、彼女が受け入れたのだ。
寝るなんて、肉体関係まで結ぶなんて、信じられない。当然、僕ははげしく嫉妬し、教授との関係に大反対したが、彼女の心を変えることはできなかった。僕も教授を特別に面白い人と思っていたので、彼女の前では教授が年配であることしか否定する理由がなかった。しかし、僕がそれを言えば言うほど、彼女も意地になった。彼女は、「年齢なんて関係ないのに。同じことを考え、同じことを感じてる人が同世代にいるとは限らないわ。 違う世代でも、そういう人が見つかったら貴重だと思う。私にはそういう人も大切だわ。先生は、口だけ立派で現実は保守的な大学の他の先生たちとは違うの。自分一人で、平気で、冒険に乗り出していく。そんな先生が私を必要と言うの」と、悲しそうな顔をした。彼女は教授を尊敬しているのだ。
その後、僕たちの関係は、恋人であったりなかったり、二人で一週間も僕のアパートの部屋にこもって裸で愛を確かめ合うかと思えば、1ヶ月もまるで会わなかったり、何とも曖昧な関係になり、ずるずる続いてしまった。
悲劇は、それから5ヶ月後に起きた。メグミが死んだのだ。第一発見者の友人の話しによれば、彼女は自分のアパートで、一人で机に向かい本を読む姿勢のままで死んでいた。開かれていた本のページは僕が貸した『ブードゥー教』の「眠りについて」。彼女も眠るように死んでいた。誰に宛てた遺書もなかった。
まさに、謎の死だ。
そんなことがほんとうにあるのだろうか? 警察が調べたが、死因がわからないという。睡眠薬を飲んだわけでもない。何も飲んでいなかった。外傷も一切ない。自殺なのか他殺なのかもわからない。司法解剖でわかったことはただひとつ。彼女が妊娠4ヶ月だったこと。あの教授が何か仕掛けたのだろうか? 彼女は教授に殺されたのではないか? 教授はすでに大学を辞めていて、どこかに消えていた。僕は大学事務局や市役所で必死に調べたが、大学の教師もやめたそうで、行方はわからなかった。警察も教授を追跡することはなく、メグミの死は自然死として片付けられた。
死んだ子供は僕の子だったのか? それともあの教授の子か? また、彼女は一体どんな思いで死んで行ったのか? 一人で苦しんでいたのか? 死因がわからないので、それもまったく予想できなかった。彼女からは何の相談もなかった。
僕は、ひどく苦しかった。僕は一人で置いていかれてしまった。人生でこんなショックな出来事ははじめてだった。僕は、彼女が死ぬ前の5ヶ月間、何とかつき合っていたけど、彼女と距離を取りすぎていた。彼女に、教授について僕の方から聞くのは嫌だった。教授と会った時にも、僕は彼女の話題には一切触れず、教授と彼女の関係も知らないふりをした。教授の方でも、何も言わなかった。嫌われてもいいから、もっとしつこく彼女に介入すればよかった。「何で二人の男とつき合ってるの!」と、もっと怒るべきだった。僕は耐えられないと言うべきだった。 泣いたり、喚いたりして、もっと僕の気持ちを発散すればよかった。そうすれば、もっと彼女の気持ちがわかったはずだ。彼女も僕の怒りに反応し、彼女の考えが少しはわかったはずだ。どうすればいいのか、苦しくても、解決策が見つかったかも知れない。少なくとも、死ぬなんて、こんなことにはならなかったに違いない。
それ以来、ずっと何年も、僕は彼女のことが気になっていた。僕は、心の地獄に陥っていたのだ。自分を責める気持ちと、女性不信の思いで、ゴチャゴチャだった。僕にはどうしても、彼女がなぜ僕と教授と同時につき合うことができたのか、わからなかった。彼女はそれも自然であるかのように振舞っていた。教授とつき合うようになってからも、彼女の僕に対する態度には何も変化がなかった。相変わらず彼女は僕をつよい視線で見つめ、愛しているわと囁いた。僕たちのセックスも、とてもよかった。以前と何も変わらなかった。考えてみれば、これ自体すごく変なことだったのだ。僕を以前と同じように愛していると言い、教授ともつき合い、それで僕が大混乱しているのに、彼女だけは平静のままで変わらない。
彼女は、僕が傷つき、ひどく混乱していることもわかっていたのに、一体僕のことをどう思っていたのか? 彼女は、ひょっとして、二重人格者か。或いは、何か精神的病いをもっていたのか? 呪術や精神医学に関心があったのもそのためなのか? それは学問上の研究対象ではなく、自分のことだったのか? 平然としている自分を変だと思い、自分を研究対象にしていたのか? 僕には彼女の心がまるで読めなかった。彼女が自分のことをどう考えているのか、それがわからなかった。後年になり、僕がイカイという名前を使うようになり、人間の心を読むことを仕事にするようになったのも、この時の経験が大きく影響している。
そして、僕をこの地獄から救い出してくれたのが、再会したエリカなのだ。エリカは僕の高校生の時の恋人だった。しかし、すぐに別れてしまった。そのエリカに再会してはじめて、僕は愛について安心できるようになった。エリカはたくましく成長していた。そして、なぜか、会ったこともないメグミのことをよく知っている友だちのように語った。エリカはメグミについていろいろ推測してみせてくれた。僕は、どんなことでもいいから、メグミの話しが聞きたかった。エリカと話している時だけ、僕は心を落ち着けることができた。エリカの話しを何度も何度も聞いている内に、女には男にはない行動原理があることも僕にはわかってきた。
エリカは、メグミが僕を深く愛していたことだけは間違いない、それは私も保証できる、と言ってくれた。エリカのこの確信が、僕を救った。メグミに対する疑いも、教授に対する嫉妬も、この間ずっと苦しかったことも、すべて忘れることができたからだ。メグミの愛さえ確かならそれでいい。僕がメグミを深く愛していたことも、あらためて確認できた。それで、少なくとも、単純に僕が悪いのでも彼女が悪いのでもないと思えるようになった。女性不信からも解放された。
タナは、ずっと考えこんでいる僕をしばらく眺めていた。しばらくしてから僕に聞いた。信じられないような優しい顔をしている。
「いまでも、メグミさんに会いたいですか?」
「えっ、会えるの? まさか!」
「あなたが望むなら、会えますよ」
僕は心の底から驚いた。タナからこんな話しを聞くなんて。予想もしていなかった。
「それはもちろん。僕はメグミに会いたい。謝りたい。知りたいこともある」
「怖くないですか? 死者たちの世界ですよ」
「怖くてもいい」
「それならご案内できます。メグミさんから短い手紙も預かっています。いまあなたの仮想メガネに転送しますね」
僕の仮想メガネには、ゆっくりと、一行一行、次の言葉が現れてきた。メグミの声も一緒に聞こえた。

メグミです。
お元気ですか?
私は元気でやっていますよ。
意外に思うかも知れませんけど、
私はいまでもあなたを愛しています。
あの教授とはそんな仲ではなかったのに、あなたには理解してもらえませんでした。
私が悪かったけど、それが私を悲しくさせました。 
子供はもちろんあなたの子です。
女の子。私と毎日元気に暮らしていますよ。
名前はコスモス。
あなた似で、とても可愛いわ。
ここでは時間の流れが違うからゆっくりだけど、コスモスもやっと9歳になりました。
女の子だからお父さんに会いたくて仕方ないみたい。
お父さんに会いたいと泣いて私を困らせます。
暗号のような地図をタナに渡したので、よければ会いにきてください。
私もあなたに会いたくてたまらない。
あなたに謝りたいし、私のこともわかって欲しい。
でも、来てくれる時には、あなたの大切なエリカさんにも相談してくださいね。
たぶん反対されないと思います。
私は、これまでも何度もエリカさんの夢の中でお話ししてきました。
私たちは大の仲良し。
あなたとエリカさんの愛がどんなか、私もよく知っていますよ。
うらやましいと思っています。
そして、ここに来て、ここが湿った淋しい世界ではないことを知って欲しいです。
私がなぜ早くここに来たかったか、あなたに理解して欲しいから。
あなたが来てくれたら、私もコスモスと一緒に動けます。

「どうですか?」
タナが、僕の顔を覗きこむようにして聞いた。泣いている自分を見られてももう仕方がない。僕は顔をあげてタナを見た。
「驚いた! ほんとうなら、これほど嬉しいことはない。メグミにも子供にも会えるなんて」
「全部ほんとうですよ。私は友だちだから、メグミさんの生活の様子もよく知っています」
「会えることが何より嬉しいけど、どうしても聞きたいこともある。真相が何だったのかも知りたいし、僕の優柔不断だった態度も誤りたい。それに何だか向こうの様子は僕たちの想像と違うみたいだね」
「まったく違うので、あなたも驚くと思います」
「すぐ案内してもらえるの?」
「いますぐはムリです。メグミさんにも準備があると思うので」
「わかった。どれくらい待つ必要がある?」
「2日だと思います。メグミさんのご返事を聞いてすぐにご報告します」
「ありがとう」
「ただし、申し訳ありませんが、それには条件があります」
「えっ、条件があるの?」
「功利的な条件ではありません。聞いていただけますか?」
「どんな条件なの?」
「メグミさんのことも関係しているのですが、私たちはいま、死者の世界の一部を現実に引っ張り出したいと考えています。あなたとメグミさんの交流が始まることが、その第一歩になります。なので、これを機会に、私たちの仕事も手伝っていただけますか?」
「役に立つなら喜んで。でも僕が何の役に立つだろう?」
「あなたがスペーストンネルを開発したことは、私たちの世界でも大きな話題です。それで私もスペーストンネルに来て、何度も調査しました。そして、今日、やっと、私たちの世界を出て、あなたにお会いできました。スペーストンネルは私たちの計画のためにも役立ちます」
「一体、どんな計画なの?」
「私たちには引越しの必要があるのです」
「引っ越し?」
僕はすぐに最近よく見る「引っ越しの夢」を思い出した。
「はい、引っ越しです。まず、これまで疎遠だった現実との関係をスペーストンネルを通じて一部回復したい。世界の宗教が力を持っていた時代には、この世とあの世の交流は活発でした。しかし、現在では、そうではありません。ところが、人類はいま宇宙に出て行くことを計画しています。しかし、動物に深い愛情を示すあなたには理解してもらえると思いますが、人類とは、現実の生きた人間たちのことだけではありません。私たち死者もまた記憶のなかの人類として存在し、死者もまた夢を見ています。生きた人間たちが宇宙に行きたいと願うのは、私たちの夢にも影響されているのです。彼らが宇宙に行くなら、私たちもスペーストンネルを使って宇宙に行く必要があります。人類の進化を彼らだけに任せるわけには行きません。彼らが滅べば、私たちもその影響を受けて滅ぶことになります。 あなたもご存知のように、彼らの宇宙についての計画は、全体としては必ずしもよいとは言えませんので」
「それはその通りだね。僕たちの新・国連でも、やはり昔のように、各国政府が勝手に自国中心主義の宇宙計画を打ち出すようになっているので、その調整に苦労させられる」
「わかっていただけますか?」
「なるほど。それでわかった。死者たちは死者たちで準備を開始したということなんだ。メグミの不思議な元気もそれに関係しているわけだ?」
「さすがです。その通り。メグミさんは最近とても元気です。私たちはいま大移動の準備をはじめたところです。メグミさんはとても博学で、彼女もそのリーダーの一人です。すごい活動家ですよ。協力していただけますか?」
「もちろん。喜んで」
「有難うございます」
「だって、そういうことなら、それはこちらからお願いすべき素晴らしい事業だから」
たしかに、世界には不思議なことが起きる。ついこの間、キベに出会って驚いたばかりだ。今日はタナに出会った。そして、僕の心の闇を長くさまよっていたメグミとも、すぐにも再会できるという。僕は、いつ頃からか、動物だけでなく、死についても知りながら生きたいと願ってきた。そのきっかけをつくったのはメグミの死だ。そのメグミが、実際に死者の世界を案内してくれる。娘のコスモスにも会えるのだ。何と、僕には娘がいる。そしてメグミはコスモスを連れて新しい世界に引越ししようとしている。今になり、最近見た夢の意味がわかった。僕の生活がまたひとつ新しくなろうとしているのだ。

4 異界の住人③~エレナ

そして、また別の日、スペーストンネルの中で、僕はエレナに出会った。

エレナは、美しい少女なのに、からだの寸法が人間の女の子とはまるで違っていた。身長は180センチくらい。足は際立って細く長く、上半身は女レスラーのように肩も胸も盛りあがり、まるで宇宙戦士そのものという体格だ。頭の形だけはキベやタナと同じで、正面から見ると両方の耳の上が大きくふくらんでいる。エレナも脳の側頭葉が異様に膨張している。しかし、澄んだ利発そうな目をした美少女であることは間違いない。このエレナが、自分は火星人と言ったのだ。僕が驚いて腰をぬかしそうになったことは言うまでもない。
僕たちの『ヒト宇宙化計画』では、火星との関係が最も重要で、新しい人間科学の成果をもとに地球人を火星に送り、地球人と火星人の合体により新しい宇宙人種を誕生させる、という筋書きになっている。
僕は、以前からこの話しが面白いと思いなからも、その理由がわからず、ただ不思議な話しだと思っていた。エレナから、なぜそんな必要があるのかを、直接聞き出すことが出来るかも知れない。

「君がエレナ? やっと君に会えたね」
「こんにちは。あなたがイカイね?」
エレナが、真っ直ぐに僕を見ている。微笑しながら。聡明な目をして。嬉しそうに。
「僕は、ずっと君に会いたいと思っていた」
「私もよ」
「君も僕を知ってるの?」
「もちろん。あなたのことは何でも知っているわ。あなたがキベやタナと出会っていた時、私も一緒にいたのよ。あなたは気づかなかったけど」
「えっ、ホント? わからなかった。君はキベやタナも知ってるの?」
「もちろん。私たちは、あなたよりずっと以前からの友だち」
「知らなかった。でもどうしてその時に僕に声をかけてくれなかったの?」
「あなたがまだ幼なすぎたから」
「えっ?」
エレナはやさしく笑っている。何という不思議な笑い方だろう。でもほんとうにおかしそうだ。僕はこういう笑い方が好きだ。
「うそよ」
「じゃ、どうして?」
「二人だけで会える日を待っていたの」
「それが今日なの?」
「そう。私に会えて嬉しい?」
「もちろん」
「私も、この機会をずっと待っていた」
「それは知らなかったよ」
「それより、私の名前はどこで知ったの?」
「新・国連のフジイ博士から聞いたよ」
「でもエレナなんて名前は平凡で、どこにもあるけど」
「君の記録に特別の磁力があって惹きつけられた」
「ふーん」
「君は何度も地球に来ていたんだね」
「記録が残っているのね」
「君の記録が僕には不思議だった為、印象につよく残った。それ以来、 君は僕の夢にしょっちゅう出てくるよ。それで、調べてみたら、君の経歴が意外なところから出てきた。君は、宇宙飛行士ラッセル・シュワイカートのひ孫で、名前は正確にはエレナ・M・シュワイカート。僕はラッセルにもすごく興味を持っていた」
「私の遠い昔のおじいさん。懐かしいわ。私の親族は地球に住んでいたから。そんな古い話しではないわね。でも、どうしておじいさんに興味があったの?」
「ラッセルは、地球の宇宙飛行士の中では抜群の哲学者で有名な人なんだ。僕も尊敬している。面白いことを予言していたよ」
「どんな?」
僕はいまでも暗記しているラッセルの詩の一部を引用した。

風に吹かれて飛んだタンポポの種子が、
土の上に落ちたものは花咲き、岩の上に落ちたものは死に絶えるように、
宇宙のある方面に行った人類は生き延び、別の方面に行った人類は死に絶えるだろう。
しかし、人類全体としては、多様な発展を宇宙でとげるだろう。

「ステキね」
「すごく暗示的だね」
「おじいさんのこの詩は知らなかったわ」
確かにラッセルが予言した通りで、現在までのところ、2035年に火星に飛び出した地球人だけが「生存」に成功している。それも、早々に火星に住む地球人から地球に対する独立宣言を出されてしまったことからもわかるように、猛烈な勢いで進化していると聞いている。
2023年に開始された月居住については、一部の「生存」が実現されているとは言え、とても成功したミッションであるとは言えない。訓練された宇宙飛行士たちと一部の住民だけが何とか生き伸びている状態で、いまだ一般の人間には住みやすい環境になっていないのだ。2040年に木星の惑星に出発した地球人については、残念ながら原因不明の理由で全員が死亡した。既に3回の木星ミッションが試みられたが、いずれも失敗。全員死亡。いまだに原因の究明作業が続けられている。その他の惑星居住も、もちろん全滅。こんな関係もあって、いま地球では火星に特別熱い視線が注がれているわけだ。
エレナは、僕の夢の中に出てくる登場人物の中で、最も不思議な存在。飛び切りアタマがよさそうで、よく理解できない言葉と暗合をたくさん使い、夢の中でいろいろ話しかけてくる。『ヒト宇宙化計画』のリーダーを依頼された時、一番驚いたのがエレナが僕の宇宙での協同者に指定されていたことだ。えっ、なぜ、エレナが相棒なのか? まだ少女なのに。しかし、その後に度々夢の中に現れるエレナの様子を見ているうちに、その指定を受け入れた方がいいのかも知れないと考え始めた。僕の夢の中にしょっちゅう出て来るのも、この件に関係しているに違いないからだ。
僕はエレナに聞いた。
「僕が君に会いたい理由がわかる?」
「わかるわ。あなたの顔に書いてある」
「君は人の心も読めるんだね」
「或る程度はね」
「君の方は、どうして僕に用事があるの?」
「あなたがスペーストンネルやロボットスーツによる<新しい身体>の開発に成功したから。それは、キベやタナたちのためだけではなく、私たち火星人のためにも使える」
「どうして?」
エレナが改まった顔をしている。
「これから言うことは、火星ミッションとして、一般の火星人はもちろん、地球人にもまだ知られたくないことだから、秘密なの。あなただけに言うけど、秘密を守れる?」
「もちろん。守るよ」
「有難う。世間的には、火星はいま凄い進化の道を進んでいると騒がれてるけど、致命的欠陥があることが最近の研究でわかったの。2035年に地球から移住してからまだ19年しか経っていないのにね」
「君はいつ火星で生まれたの?」
「2037年よ。いまは2054年だから、私の年齢は17才」
「やはり17才か。タナとも同じだね」
「そうよ」
ノアやアスカとも同じだ。皆17才。近い内に、皆が一緒に会うことになるのだろうか?
「それで、どんな欠陥なの?」
「私たちの火星ではもう<身体>をつくれない。子供の出生率も、この2年で驚くほど落ちている。火星人は地球人に愛想をつかして早々に独立したけど、この独立が早すぎた。地球人が抱える地球問題が深刻なことは私たちも知っている。でも火星人の火星問題はもっと深刻。この問題を知ったら誰も火星人を羨ましいとは思わない。しかも地球問題と火星問題の二つの問題はリンクしていて、一緒じゃないと解決できない」
「リンクする問題を解決するために僕たちは出会う必要があった?」
「そういう事ね」
「君たちはいまでも人間なの?」
「半分はね。身体の透明化がはじまっている。やがて身体を失くす運命」
「どういうこと?」
「脳の構造が違う。火星人の脳には地球人の脳が残している動物の爬虫類脳がない。切除したのよ。それで、生存に必要な部分と、理性と情動をコントロールする人間の哺乳類脳だけを残したの。人間の闘争本能が動物の爬虫類脳と人間の理性脳の対立から生まれることを知っていたから。これで地球人のような暴力や愚かな抗争をやめられると思って」
「解決を急ぎ過ぎたということ?」
「そうね。急ぎ過ぎた」
「どんな?」
「動物だった時代から蓄積された記憶の重要性を軽く見たことになるわ。それ以来、火星人は夢から覚めて我に帰るための、帰る場所としての身体を失くしはじめた。ゼロポイントに対する感覚の喪失よ。あなたにはよくわかると思うけど、夢の中に住む度合いがつよいと、夢と現実の区別がつかなくなるの。だから、文化・経済・政治のどんな点でも地球人より急速に進歩したのに、肝心のその価値の偉大さが自分たちでわからなくなってきた」
「逆に、地球人は夢見る力を失いつつあるよ。相変わらずの戦争続きで、絶望や倦怠が地上に広がりすぎたから」
「火星はその反対。美しいだけの清潔なクリーンルーム。カオスがないから、闘争もないし、愛もない」
「僕の合体の理論は正しいと思う?」
「地球人と火星人の合体ね? 正しいわ。地球人が動物の爬虫類脳を残し、相変わらず争いに苦しむ人間だけど、でもそのことで身体に支えられたゼロポイントをキープしている」
「それはその通りだけど」
「でも、あなたの望みは何?」
「宇宙で生きられる新しいヒトを創造すること。宇宙の終りまで旅をする<大きな家族>をつくること」
「どうして宇宙の終りまでなの?」
「僕にもわからない。ただ、ヒトという種族には宇宙の終末を確認する責任がある気がする」
「責任?」
「うん。ヒトとして生まれたことの。こんな風に意識をもち、こんな風に文明を開拓して生きてきた者としての。いいことも悪いことも含めてね。僕は、なぜか、この世に生まれたすべての者が宇宙の終りに到着する光景を見たいんだ」
「地球人だけでなく?」
「もちろん。すべての者」
「すべての者って?」
「君たち異星人や、キベたちや、タナたちのすべて。一度誕生した者たちのすべて」
「それがあなたの愛?」
「そう」
「その為に必要などんな闘いにも耐えられる?」
「もちろん、耐えるよ」
「それなら協力するわ」
「ありがとう」
最初にエレナが僕を抱きしめた。つよい力だ。僕も抱き返した。でも、空気を抱いているような感じがした。エレナの体重は軽い。見かけの印象の半分になっているのだ。

こうして、僕はとうとう、エレナという異星人にも会えた。
現在、新・国連の惑星調査隊により、全宇宙の範囲において、異界の住人たちの生態を明らかにすべき探査プロジェクトが進められていて、そのマップが作成されつつある。キベやタナやエレナからの情報は、間違いなくこのマップを大幅に変更するものになる。太陽圏外の宇宙人についての情報も、最近続々と集まっている。これらの情報で、僕たちは、異界の住人たちの世界についていかに無知であったかについて、あらためて思い知ることになる。

5 結婚

フジイ博士は、以前から、『ヒト宇宙化計画』には火星人の参加が必須だと強調していた。僕たちが開発したロボットスーツと秘書ロボットだけでは、新しいヒトの種子をつくれるだけで、それ以上は展開できないと言うのだ。たしかに、種子だけなら発芽しない。その種子を、どんな土地で、どう育てるのか。宇宙への進出といっても、具体的にいつ、誰と、どんな装置をもち、どこに向って出発すべきなのか?
エレナの話しを聞いて、フジイ博士の話しがこれでやっとわかる気がした。僕にとっても、どうやらエレナは特別な存在になるようだ。
「ねぇ、エレナ。火星人の現状は君の話しでよく理解できたけど、結局、僕たち地球人にはない能力として君たちが育てたものは何なの?」
「大切なポイントね」
「それを話してくれる?」
「簡単に言って、私たち火星人が地球人をはじめて客体化した存在であるということ。私たちは地球から来たわけだから、それは毎日毎日地球人を意識して生きてきたの。でも、ただぼんやりと意識してきたわけじゃない。地球人は自分たちを意識するだけで精 一杯だったと思うけど、私たちは地球を自分たちの内部に取りこみながら火星人として生きてきた。それは大変な作業よ。脳にはそんな作業はものすごく負担なの。でも、イカイも知っているはずだけど、客体化の効果は大きいわ。そのお蔭で、私たちの脳の側頭葉が発達し、意識の力が強力になった」
「そうか。それで君の耳の上の方が大きく膨らんでいるんだね」
「そう。地球人でも一部の若い子たちが側頭葉を発達させているけど、私の場合は 爬虫類脳がないからよけいに目立つのよ。私もこの膨らみが気に入っている。私が言う客体化の意味、わかってもらえるかしら?」
「もちろん理解できる。もともと、地球の人間が、道具を使うことからスタートし、自己を客体化できたことで文化を発達させ、サルとは違うレベルの意識を発達させた。つまり、二足歩行を完成させ、新しく人間の文化をつくることで、サルから完全に独立した。だから、君が言うように、火星人の自立の原動力が客体化であることは僕も理解できるよ」
「有難う。それがあなたが新・国連の宇宙開発部に提出した論文の内容だから、理解してくれるのも当然ね。でも、あなたにも、わからないことがあった。つまり、実際に、人間の<新しい身体>をどう設計すべきか。そのイメージは決定できなかった。どうかしら?」
「凄いね、君がそこまで知っているとは思わなかった」
エレナは楽しそうだ。
「フフフ。だって、私はストーカー。火星から遣わされたあなたに対するおっかけなのよ」
「そうなの? 君みたいな聡明な子におっかけされるなんて、嬉しいね」
「私が言いたいことは、人間とサルの関係と同じで、今度は、地球人を客体化する事で得た新しい意識の力で、既成の人間種から新しい人間種を誕生させることができる、ということね。地球にも火星にもなかった新しい宇宙文化を創造する事を条件にね」
「凄いよ! 火星人の意識の力がヒト宇宙化計画に役立つわけだね」
「そのはずよ。少なくとも、この力で、<新しい身体>対する設計プランをつくれる。このプラン創造力が、私たち火星人の知恵ね。あなたはその種を用意してくれた」
「なるほど。僕の地球人としての知恵は、開発したロボットスーツに<心>を持たせ、分身ロボットとして、人間の輪廻を託せるようにする技術だった。僕たちは、分身ロボットに<心>を預け、再生医療で人工身体を形成し、望むなら、不死として生き続けることができるようになった。その技術を、僕と君が協力すれば具体化出来るというわけだ」
「そういうことね」
僕は興奮を押さえきれない。こんな議論は誰とも出来ないからだ。せき込んでさらにエレナに聞いた。
「具体的には?」
「<新しい身体>は、0G−1G間の可変重力場に耐えられる<回転する身体>として設計すべきね。その関係から必要な新しい脳改造プランが出てくる。現在の脳では、地球人の脳も火星人の脳も、0G−1G間の可変重力場での回転には耐えられない」
「そうか! いま言うと負け惜しみだけど、実は僕も、<回転する身体>だと見当はつけていた。だから、その訓練も、スペーストンネル少年少女学校で始めていた。ただ、脳との関係の解明は難しいし、自信はなかった。裏付けが得られないまま時間が過ぎていた。だから、不安だったんだ」
「人間が月の1/6重力下で学んだことも、私たちが火星の1/3重力下で学んだことも、結局は身体と環境の密接な関係という基本的なことだったわ。あなたも、姿勢こそ文化創造の母胎、という説をさっきの論文で主張していたわね」
「そうだ。あの論文で、フジイ博士が僕をヒト宇宙化計画のリーダーに抜擢してくれた」
「よくわかる。地球人も頭でっかちになり、身体のことを忘れていたから、そんな真理も理解できない状態になっていた。だからあなたの考えは、フジイ博士のような一部の人たちに強烈なインパクトを与えたのよ」
「有難う。僕が書いたのは、要するに、身体と環境の関係は一体で、姿勢は重力の関数であるということ。魚・両生類・鳥・サルには、その姿勢に応じた固有の文化がある。人間もまったく同じ。二足歩行という独特な姿勢に応じた独特な文化を形成してきたのが、人間だ。だから、人間が<人間の進化>を希望するなら、宇宙の無重力環境に出て何もしないなら、衰退を招くだけだけだ。この点をまず認識する必要がある。無重力環境でプカプカ浮いていることが楽しいなんて、とんでもない誤解だ。二足歩行を奪われるから、人間は魚や両生類に退化してしまう。それは大変な事だよ。進化ではなく、退行だ。そして、その逆に、0G−1G間を調整できて、多様な重力場を経験できるなら、人間はさらに新しい姿勢を獲得し、その姿勢に応じた新しい文化を創造する可能性がある」
「私も、それが正しいと思う。その新しい姿勢こそ<回転する身体>が生み出すの。あなたの提案は、0G−1G間を調整するための、人工重力を創出できるロボットスーツを開発するというものだったわね。素晴らしいわ」
「有難う。嬉しいよ。でも、はじめのうちは、誰も理解してくれなかった。フジイ博士だけが認めてくれた」
「それが独創というものの運命だから。時間がかかるのは仕方ないわ」
「それはそうだ。そして、いつか君に出会う日が来ることをフジイ博士は予言し、僕を励まし続けてくれたというわけだ」
「素晴らしい人ね。私にも大切な恩人だわ」
「君に会って、僕はいまやっと、その日を迎えた」
「今日がその創造の第1日ね。さっそく、あなたのチームと私たちのチームが組み、あなたの分身ロボットを<回転する身体>として構成するための実験をはじめましょう」
「面白いね! 僕はこの機会を待っていた」
「火星人もこれで、身体喪失による消滅という最大の危機から救われる。<回転する身体>がどんな新しい文化を誕生させることになるか、私もシュミレーションを開始するわ」
「僕の考えと君の考えの関係はどうなっているの?」
「双子の兄妹よ」
「創造すべき新しい文化について、君は既にイメージを持っているの?」
「具体的には、私だってわからない。ただ・・・」
「ただ?」
「何年後になるのかわからないけど、私はあなたと結婚して子供を産みたいわ」
「その子供が<新しい身体>の体現者で、その子供の成長過程により新しい文化の創造の姿がわかる。そう理解していいのかな?」
「そうだと思う」
「君は、17才でまだ若いけど、僕みたいな年齢不詳の男と結婚できるの?」
「出来るわ。私は火星では17才だけど、脳改造のお蔭で、地球時代の輪廻も継承しているわ」
「どういう事?」
「つまり、地球の言葉でわかりやすく言えば、私の実年齢は17才、でも私は700年間も生きている」
「僕は?」
「あなたの場合は、実年齢は70才位だと思うけど、宇宙年齢では17才」
「若いということ?」
「えぇ、とても若いわ」
「そして、君は若くない?」
「だって、700年も生きてきたなんて、バンパイアと同じよ」
「でも、見かけは若い女の子だ」
「もちろん、私のからだはまるごと17才で新鮮よ。触ってみる?」
エレナが楽しそうに笑っている。僕を試しているのだ。
「それで、宇宙進出は、いつ開始する?」
「それはもう少し後ね。あなたがエックハルト軍のリーダーとして地球人同士の争いに解決のメドをつけた時かしら? そうしないと宇宙航路の安全性が保障されないわね」
「エダのことも知ってるの?」
「何でも知ってるわ。メタトロン軍とエックハルト軍の戦争は、火星でも注目の的なのよ。たぶん、地球人の善と悪の最後の大戦争だから」
「そうなるね。僕も早く終わって欲しいけど」
「結婚はその後ね」

第6話『メタトロン軍の野望と戦略』

1 メタトロン軍

私の名前はエダ。47才。メタトロン軍の大佐をつとめている。
メタトロン軍は、最高指導者のオスマン・ウイサルによって発案された。オスマンは中東某国の現役の政治家でもある。そこに、アジェイが科学部門統括リーダーとして加わり、私が大佐として呼ばれたことで、軍の体裁が整えられた。2035年に、新・国連のエックルト軍と戦うため、中東を中心に世界の複数諸国から秘密の資金援助を受け、正式に軍としてスタートした。現在は月に前衛基地をもち、本部をイスラエル上空の宇宙ステーションに置いている。イスラエルとは友好関係にあるため、イスラエル領空のまたその上の空を借用しているのだ。その他に地上には、オスマンの中東某国に最先端のロボット技術と心改造技術をもつ広大な秘密基地を所有する。いずれの基地ともに核武装され、最新の兵器を揃えている。軍は、公称では、100万人の軍隊と500万体のロボット兵士により構成されている。それでも充分ではないが、主力は情報戦争を担う特殊部隊から構成されているため、活動に支障はない。
メタトロン軍の主目的は、公には世界の平和構築に貢献し、新しい宇宙政策を展開すること。新・国連による欺瞞的な世界平和主義に逆らい、アラブ諸国に肩入れしているが、しかしあくまでもいかなる国家にも所属しないことを旨とする。現在でも、2020年に勃発した第7次中東戦争以降の中東戦争がイスラエル・パレスチナ間で続いているが、原則としてどちらの勢力にも加担しないことになっている。世界のマスコミはメタトロン軍はイスラエルよりと報じているが、それは誤りである。
オスマンは、70才。政治家としてやり手であり、その手口は巧妙である。アメリカと中国・インド・ロシアの対立、及びイスラエルとアラブ諸国の対立をうまく利用している。イスラエルとアラブ諸国が公にはできない外交問題を抱えた時に、メタトロン軍が秘密作戦という条件のもとで陰でその処理につとめてきた。そのため彼らからの信頼は絶大であり、メタトロン軍の独自活動は大目に見られている。オスマンが世界と宇宙に君臨する新中東王国樹立の野望を抱いていることは彼らも承知しているが、それを見て見ぬふりなのだ。必要以上の頭角を現した場合にだけ叩き、有効な成果を奪い、自分たちのために利用するという考えだ。オスマンもその点はよく承知している。当然、それを回避するための方法も考えている。
一方のアジェイは、ロンドン生まれの中東人で、52才。アジェイは、私から見ても、危険だ。その過激な思想と行動で、中東各国からも危険視されている。なぜそのような危険思想をもつようになったのかは、私にもわからない。彼の人生は秘密のベールに包まれている。彼がロンドン大学で生理学・遺伝子工学・脳科学を学び、主席で卒業したこと、ベイルートの病院で脳外科の主任教授を務めていたこと、そこを32才の若さでやめたことだけはわかっている。何があってそこを辞職したのか、その後20年間何をやっていたのか、それについては誰も知らない。オスマンも詳しいことは知らないようだ。とにかく、アジェイは、かつてのナチス優生学に取り憑かれた狂人だ。世界中の人びとの脳を改造し、新中東王国を形成するための新民族の誕生を図ろうとしている。オスマンはアジェイに出会い、狂喜して喜んだ。これでメタトロン軍の科学部門のリーダーを獲得できたと思ったからだ。
しかし、アジェイの考えは、私からすれば、単に危険思想であるに過ぎず、実行原理としては充分ではない。つまり、甘いのだ。せいぜい数千人や数万人規模の脳改造はアジェイ方式でできても、民族規模に相当するような大量の人間の脳改造など、アジェイ方式で可能になるはずがない。私がアジェイに何度説明しても、彼は理解しようとしない。狂信とは、まさに恐ろしいものだ。
脳改造された人間が、一定の閾値を超え、大量に登場すれば、
「別の論理」が生まれ、「別の力」が作用する。
われわれは、この「別の論理」と「別の力」に注目しなければならないのだ。それなしに、大量の人間を一律にコントロールできることなどあり得ない。オスマンもアジェイもそこまでは考えていない。甘い。当面の目標に夢中なのだ。私は、思想としても、戦略としても、もう少し違うことを考えている。当面の目標についてはそれでいい。しかし、その後は、私の作戦が必要になるはずだ。

2 悪の自壊

「悪の自壊」という原理が存在する。多くの人は信じないが。
私がメタトロン軍に加入した理由は、ある意味で単純だ。悪の内部に入り込み、自分も悪にまみれながら、悪に悪の限界を知らしめること。それ以外、真に善に相当する世界が実現される見込みはないと考えるからだ。

私は、パレスチナ人として生まれ、絶え間なくくり返される中東戦争の渦中を生きてきた。私の子供時代も、青春も、混乱と戦争による悲惨さと共にあった。周囲にはつねに憎悪と血の海が広がっていた。最後までイスラエルを国家として認めずハマスを支援していた私の父母も、その関係で5人の兄も、イスラエル軍の侵攻で私の目の前で殺された。女の私も最後に撃たれて気絶したが、私だけが病院で奇跡的に助かった。たった一人で。しかも心に重い傷を抱えて。この世にまた生きろと放り出されたのだ。しかし、私のような目にあった子供たちは数え切れない。現在もその数が増えている。私は、このままでは埒が明かないと心の底から考えた。
新しい国家の形態として、
欧米式統治ともアジア式統治とも異なるアラブ式民主主義を確立したい。
しかし、そんな民主主義がアラブの地に実現される見込みもまた、現在のままでは皆無だった。私を蔭で支援してくれている新・国連のサイード・S博士の深刻な体験を見ても、明らかだ。博士ほどアラブの歴史に蹂躙された者はいない。第1次中東戦争にはじまり、博士はありとあらゆる戦争の悲劇をアラブの地で見てきた。父がパレスチナ人、母がイスラエル人だったことがそもそもの禍のはじまりだ。博士は両国に味方したかったし、実際にそうしてきた。しかし両国から裏切られ続けてきた。パレスチナ人の父をイスラエル人に殺され、イスラエル人の母をパレスチナ人に殺されたことは、何よりもその悲惨な象徴だ。国連と行ったあらゆる博士の和平努力も、実を結ぶことなく終っている。その不毛の状態が、現在に至るまで、減少するどころではなく、拡大の一途だ。アラブの地は、いまも深い怨念の感情に染められている。そんな時に、誰が呑気な平和主義や「善の勝利」など、誰が信じるだろうか。
アラブの地に住んでみればわかる。パレスチナ人の主張もイスラエル人の主張も、どちらも「善」だ。或いはどちらも「悪」だ。善悪論では決して解決せず、対立の根は深い。この対立は誰も解消できない。アメリカが長年にわたり両者に対する仲介を試みてきたが、対立の根の深さに疲れ果て、撤退せざるを得なかった。
善の側が、つまり「私たちは善の実現のために活動している」と自称する者たちが掲げる方法は、私には楽天的すぎ、馴染めない。彼らは世界を甘く見ている。善が実現される場合も、そんなことで善が実現された例は、それが重要な紛争であればあるほど、歴史的に一度もない。多くの場合が、善の力が直接及ばない範囲での、単なる武力による勝利か、或いは悪の自壊作用によっているのだ。
それはむろん、善の攻勢の中での出来事のため、たしかに善と無関係ではない。しかし、少なくとも善の側の主体的勝利ではなく、そこに直接の勝因があるのではない。事態はもっと微妙で複雑なのだ。
実際に、悪だけが自己の目的を遂げることができる。そして、悪が実現されてしまえば、むろん世界はひどいことになる。しかし、それを実現する直前か、或いは実現したすぐ後に、まるで呪われていたかのように、自壊が起きることがある。
こんなことを目指していたのではなかった。
これが、つねに、悪が勝利した時のセリフだ。だから、この瞬間に賭けるしかないのだ。この瞬間における悪の自壊を演出するための戦略こそが、有効なのだ。私は、この戦略に命を賭けている。
つまり、最大の焦点は善と悪の闘争ではない。それは表面で起きる事件であり、水面下で起きる事件こそ重要なポイントなのだ。善の攻勢の中での、悪の側の勝利こそが、悪を自壊させ、結果として善が実現される可能性がある。われわれは、この過程に注目しなければならない。
善の側につく者たちには、この点がわからない。善が悪をやっつけることが出来ると勝手に勘違いしてしまう。それは事実ではない。人間が陥った困難な状況を打開するためには、悪と世界から名指しされる側に自ら進んで身を置く必要も出てくるのだ。
実際、戦争はすべて悪である。いかなる理由であれ、人間を殺すことが善であるはずがない。善の戦争など存在しない。しかし、戦争終結後に、勝利した側が、自分たちの戦争は善の戦争だったと勝手に歴史を捏造してきただけだ。世界史とはこの捏造のオンパレードだ。なぜ、人間を殺してもいいのか? しかも、戦争では、10人を殺した者は小者に過ぎず、なぜ1万人を殺した者が英雄なのか? こんな馬鹿げたウソが、なぜ現在に至るまで糾弾されずに続いているのか? 欧米諸国にしても、絶え間ない戦争の連続だった。現在生き残っている国々とは、全員がその悪の戦争を勝ち抜いてきた者たちである。
むろん、私はつねに私の戦略が必要であると主張したいのではない。それは、複雑怪奇な中東における国家の解体と民主主義の実現を目的にするような、特殊なケースについてだけだ。私は、アジアやアフリカに対しても私の戦略を薦めるつもりはない。私は彼らについては何も知らないし、関心もない。
そして、現在の世界とアラブの情勢が、その特殊なケースに相当する。私は、悩みぬいた果てに、メタトロン軍に身を置くことを決心した。今回の場合は、歴史上最も複雑な戦争になってしまった中東戦争が、大量のロボット兵士を獲得したことで、新しい戦争のあり方に移行してしまった。
人間は死なない。破壊されるのはロボット兵士。だから戦争も肯定される。この奇妙な論理で、まさに戦争が公式に「解禁」されたのだ。当然、このような最悪の戦争が、地球規模で世界中に及ぶことになる。また、この最悪の戦争が、宇宙核戦争として宇宙に持ち込まれることになる。そして、冗談ではなく、人間という種の滅亡というおまけまでついている。
私は、メタトロン軍に参加し、オスマンとアジェイの計画を推進し、最後に私の作戦を実行することで、悪の自壊を実現したいと考えている。そのためにはまず勝利しなければならない。私の作戦は、悪の規模としては、歴史上最大のものになるだろう。

3 方法

私は、2020年に勃発したイスラエル・パレスチナの第7次中東戦争では、功労者の一人ということになっている。そのため、私は最初はエックハルト軍に参加を要請された。しかし、オスマンは私を誤解している。
私がこの戦争でパレスチナ人として戦争終結に一定の役割を果たすことができたのは、ハマスの一員としてイスラエル軍に勝利したわけではないのだ。イスラム過激主義と結び彼らの自爆テロをそのまま導入したわけでもない。外部からは、私がハマスの強大化に成功したことでイスラエル軍を沈黙させたように見えたかも知れない。しかし、事実は違う。ハマスがイスラエル軍に軍事的に勝利したことはこれまでも一度もなかった。それ以降も、その見込みはゼロだった。
私はただ、数人の単位で行われていたそれまでの自爆テロを、10人の単位による10ヶ所以上の同時自爆テロとして、単に首都テルアビブだけではなくイスラエル全土において実行し、ある意味で徹底的に拡大しただけだ。しかも、自爆テロの担い手には兵士は採用せず、徹底して10代後半の民間人の少女に限った。私は、私と同じような心の傷をもつ少女たちだけをパレスチナ全土から探し出し、つねに200名程度の大集団として教育した。自爆テロを志願する少女たちの数は、驚くほど多かったし、彼女たちの心に宿った憎悪も深かった。ひるがえってみれば、1948年の第1次中東戦争以来、約80年もの長期にわたり憎悪と血に染められた国土に生きることを強いられてきたパレスチナ人にとっては、それも自然なことなのだ。イスラム過激主義もハマスも、私の作戦には直接タッチしていない。私が別の組織を秘密学校としてつくり、これまでにない形の自爆テロを実行しただけだ。
そして、私が2023年に実行した自爆テロは、私が思い描いたように、大成功し、次に、内部から、見事に崩壊した。そして、私が組織した自爆テロ学校も続いて崩壊したその原因は、世界中から大きな同情を集め、評価されてしまったからだ。
悪が表舞台に出て、お日様の光を浴びてしまえば、
太陽の下に連れ出された吸血鬼と同じだ。
私の自爆テロ作戦は、むろんイスラエル本体には物質的な打撃を与えていない。イスラエル軍は健在のままだった。しかし、「多くの純真なパレスチナの少女たちにこれほど憎まれることになったイスラエル」というプロパガンダは、心理的にイスラエルに甚大な被害を与え、国際世論は一斉に少女たちに味方した。この意味において成功したことで、背後から支援したハマスは民意を取り戻し、パレスチナとアラブ全土から評価されるようになり、パレスチナの確固たる第一党の地位を占めることになった。国際世論を味方にする方法を間違えてしまったイスラエルとその軍は、これ以上パレスチナに攻撃を仕掛ける理由を失った。
自爆テロは、強大な武力をもつ国家に抵抗するための自衛の策だ。それ以上のものではない。誰も、それで相手との戦争に勝利するとは期待していない。イスラム過激主義も、自爆テロで、非イスラム圏のイスラム圏への侵入に抵抗しているだけだ。それで非イスラム国家群を打倒し、世界をイスラム圏に塗り替えてしまうことまでを意図していない。だからこそ、考え方をひとつ変え、それに必要な新しい戦略を導入すれば、自爆テロはさらに積極的な作戦になり得る。
いずれにしても、第7次中東戦争は終結した。しかし、本質的な問題は何も解決していない。火種はそのまま残っているのだ。私の出番はここからだ。

4 戦略

メタトロン軍が、中東の地から台頭したのは必然だった。
しかも、メタトロン軍は、中東の地から生まれたにも拘らず、もはやパレスチナとイスラエルのどちらの勝利も目指していない。私がメタトロン軍に参加したのも、この考えは使えると思ったからだ。
私は、オスマンの新中東王国樹立の野心や、アジェイの人間改造論を支持しているわけではない。悪として評価しているということだ。この悪が、どこまで悪として成功するかをやってみようということだ。むろん、そのために必要になる犠牲は、通常の自爆テロの比ではない。メタトロン軍における私の作戦では、一度に1万人以上の犠牲が必要だ。それを何度も、相手が戦意を喪失するまで繰り返す。現代の「トロイの木馬」のようなものだ。
したがって、私がそのための戦士として用意するのは今回は少女ではなく、ロボット兵士だ。しかも単なるバカなロボット兵士ではない。私は、アジェイと組み、フランスの某会社と協同し、脳改造技術をロボットの人工脳に適用して「人間を憎悪できるロボット兵士」の大量開発に成功しつつある。このロボット兵士が、敵のロボット兵士と人間を殺すのだ。エックハルト軍が開発中の「人間と共生するロボット兵士」と比較すれば、まさに対極のロボットだ。私は彼らのロボット兵士を評価する立場にはない。しかし、われわれのロボット兵士も、彼らのロボット兵士も、既成の「人間の言いなりになるロボット兵士」の凡庸さに比べたら、まさに別世界の存在だ。
また、スタートしたばかりとはいえ、電脳空間のネットロボットを利用した敵や一般人への脳への侵入も開始している。この計画は、かつてトルコのイスタンブールで有名になった電脳サイト『イスタンブール』の栄光と失敗の事件からヒントを得たものだ。アジェイの脳改造作戦と平行して進行させているが、私の方法は、アジェイのような有無を言わせぬ強制的な脳の乗っ取りではない。無理やりではなく、相手の方から「乗っ取ってください」と言い出すように仕組むのである。これからの「脳さらい」は、暴力によるのではなく、愛によるものでなければならない。
脳さらい。
それは、相手が自分で乗っ取られることを望んでしまうような、はるかに魔術的なものだ。
この場合にのみ、われわれは侵入した敵の脳に、われわれによる改造の証拠を残さない。仮に修復された場合にも、敵はわれわれに恨みを抱かない。なぜなら、その改造は彼らの自発的な選択だったからだ。私は恋愛についてはほとんど何も知らない。私の人生では、私が恋愛ができるような羨ましい環境には恵まれなかった。しかし、私がここで考えている「魔術」が、もし「愛の魔術」に似ているとするならば、それはそれで面白いのではないかと思う。
私は、すでに私の作戦を決定し、準備を開始した。作戦名は『宇宙の花計画』。オスマンやアジェイの計画が成功した後に、正式に展開されることになっている。オスマンやアジェイは、私の真の目的を知れば驚くだろう。しかし、その時はもう遅い。
ただし、この計画を成功させるためには、中心になって推進した私が確実に死ななければならない。実行される悪が大規模になるほど、それを仕掛けた者の存在は抹殺されている必要がある。どんな噂も、それが噂であるならば、私が疑われても構わない。しかし、私が陰で操作していたことの証拠が発見されてしまえば、悪の自壊は起きにくい。だから、私は、一切の証拠と共に、この世からきれいに消え去ることになっている。私の死後も、私の分身ロボットに自己を託し、私を延命させることはしない。それでは証拠が生き証人として残ってしまう。私の心は無尽に解体し、この宇宙から永遠に消え去る必要がある。それが私のような悪を担う者の運命だ。
オスマンやアジェイにも、私が死ぬことになっていることは極秘だ。部下にも一切伝えていない。私の防御技術は完璧であり、いかなる者の私の脳への侵入によっても解読される心配はない。ただ一人、エックハルト軍のイカイ以外には。彼だけが、私にとっては最大の難敵だ。
したがって、私が作戦を全面的に展開する前に果たすべき課題は、イカイの殺害であり、イカイの脳操作技術を私が上回ることである。私の敵は、彼以外には誰もいない。
しかし、たしかに、心情的には、私は、せめてイカイが私の立場をもう少し理解してくれたらと願っているかも知れない。真の敵であるなら、それ位の理解力があってもいいはずではないか? そうすれば、私はもっと楽に死んでいけるだろう。私は、現代科学技術の成果を駆使し、地球人として最初で最後の最大規模の自爆テロをやろうしている。私を理解してくれるのは、世界中でサイード・S博士一人だけかも知れない。しかし、それもやむを得ないのだろう。
私の死後、アラブ諸国は使命を終えたメタトロン軍と共に解体し、エックハルト軍も標的を失うはずだ。エックハルト軍が宇宙に向けて出発した後に、ここ中東の地においては、私の一部の部下も参加し、私が考えたアラブ式民主主義と呼ぶべき新しい統治の試みが始まるはずだ。それはもはや、いかなる国家による統治でもない。それが成功し、実を結ぶなら、アラブ民族がまた独自の方式において宇宙に進出することも夢ではない。その進出は、国家の形態を残したまま進出した者たちよりも、はかに優れた成功を収めるはずである。