第11話・第12話・第13話

第11話『ノア、脳回路を使い分ける』

1 奇跡が起きた!

私の身体にいま起きていることは、一体何だろう?
私の場合は、脳の側頭葉が膨らむだけじゃないみたい。もっと脳の内部に変化が起きていることを感じる。イカイ先生やお父さんに聞いてもわからない。しばらく様子を見ないとダメだって。でも、しばらくって、いつまでなの?
私が失明を回復した去年のことは、いまでも昨日のことのようによく覚えている。それは、本当に奇跡の感覚っていうしかない不思議な経験だった。それが、いままた、同じようなことが起きようとしているみたい。今度は、どんな新しいことが起きるの?
私は、夢の中に出てくる空を飛ぶ少年のことが気になっている。その夢を見ている時に限って、脳の内部がむずむずして仕方がないから。この感触は何だろう。失明が回復したことと関係があるのかしら?
去年のあの日。それはとても寒い一月の朝だった。起きたら、私が、部屋の中を見回していた。アスカの顔もじろじろ見ていた。窓の外の風景もじっと見ていた。
寒いわけだ。窓の外では雪がしんしんと降っていた。たくさんの雪が積もり、あたり一面は真っ白な雪景色。そういえば私は小さい頃は雪が好きだった。よく雪の中でころんで遊んだ。友だちと雪合戦もした。それでいまあの頃のことを懐かしく思い出していたのだ。最後に雪を見たのはいつだったろう? 私は雪が好きだ・・・。
「えーっ? 一体どうしたの? まさか!・・・」
私は思わず叫んだ。だって、私はいま目が見える人間のように話している。じっと物思いをはじめた。真実であって欲しい。そばに付き添っていたアスカが心配して聞いた。
「ノア、どうしたの? 見えるの?」
「ええ、見えるわ。見えるのよ」
そうか。これがアスカの顔か。はっきり見える。はじめて見る恋人の顔。こんな顔をしていたのだ。
「よかった! ノアは回復したんだね。バンザーイ、やったね!」
アスカも小躍りして喜んでくれている。
「これがあなたの顔ね。触ってもいい? もっと近くに来て。確かめたいの」
「もちろん」
アスカが顔を差し出したので、私は触った。触って、触って、アスカの顔を確かめた。
「へーっ、想像していたよりいい男ね」
目。鼻。ほっぺた。口。そして、手。私と同じように側頭葉が膨らんだ頭。髪の毛。からだ。どこを触っても嬉しい。私は何だか恥ずかしい。
「えーっ、変な気持ち。でも、あらためて、はじめまして」
アスカも、何だかもじもじはじめた。彼も恥ずかしそうにしているので、可愛い。
「うん。はじめまして」
アスカも私をじっと見ている。
「何て嬉しいの! 私、あなたが見える。そして、部屋の中も。外も。雪も。全部見えるの!」
「うん。昨日君のお母さんから電話があって、ノアの目の包帯をとるから病室に来ないかと言われた。お父さんもお母さんも一緒に今朝早く来た。いったんお母さんは家に戻り、お父さんも会社に行った。でも二人ともすぐもどって来るよ。僕はさっき来たばかり。君が最初に見たのが僕なんて、嬉しいよ。記念になるね」
失明が直ったのだ。奇跡が起きた! 嬉しかった。お父さんやイカイ先生が言った通りになった。10年振りの視覚の世界。アスカの顔もはじめて見た。最近ボーイフレンドになったばかりのホヤホヤの関係だ。ずば抜けてハンサムではなかったけど、精悍なタイプで、頼もしい。私の勘に狂いはなかった。頼りになるいい男だ。そして、私の顔。私のからだ。彼や家族が帰った後で、病院のお風呂場の鏡で一人で自分の裸の姿をじっくり見た。自分で言うのもヘンだけど、キレイだと思った。少し心配してたけど、これで彼に対する自信もついた。確かめるまではちょっと不安だったから。
お父さんに連れられて、この学校に来たこと。
ここで、斉藤先生という自分に合った医者を見つけることができたこと。
私の彼がアスカだったこと。
私は運がよかった。
斉藤先生は、お父さんの説明によると、お父さんの親友の一人。ニューヨークで眼科医を長くやった後に、しばらく海外に行っていたけど、お父さんの紹介でフジイ博士という新・国連の偉い人に会い、新・国連が関係する病院の先生になった。新・国連では、フジイ博士が一番偉い脳科学者で、斉藤先生がその次に偉いそうだ。そして、斉藤先生の子供が、アスカ。
でも、斉藤先生はほんとうにお医者さんかしら? お医者さんや科学者にしては、言うことが変わっていて面白い。性格も変わってる。人の前ではいつも笑って明るいけど、私は目が見えるようになってからも何度も斉藤先生が一人でいる時にすごく暗い顔をしているのを見た。その時の顔が、笑っている時とは別人だ。でも、いわゆる「飛んでる人」で面白い。「ノアは原因不明で失明したので、原因不明で直る可能性がある。信こそ力なり。直ると思えば直る!」なんて、まるで宗教家みたいなことを言って、いつも私を励ましてくれた。私は先生といると笑ってばかりだ。いつも明るい気持ちになれた。私の知らない面もあるのかも知れないけど、こんな先生は素敵だと思った。だから、最初にアスカを紹介された時、先生とそっくりな顔をしているので、すぐ好きになった。
斉藤先生は、私の失明の原因が物理的要因ではなく、ある種の心因性に関係していることを突き止めてくれた。私の場合は、生まれた時、私だけが家族の中でもひどい近眼だった。そして、お父さんによれば、私は好き嫌いがものすごくはげしかった。小さい時には癲癇気質もあり、急に倒れたり、急に暴れ出したこともよくあったという。目の網膜に問題がある場合は、失明の原因はわかりやすいという。でも、私の網膜は正常だった。だから先生は、これは「僕の推測」と断った上で、私が子供の頃は喋ることが苦手だったこと、見たいものと見たくないものの差もはっきりし過ぎていたこと、それらも原因で視覚情報を脳に送る回路に障害が発生していたかも知れないと言った。もちろん正確には不明だけど、その可能性があるとのこと。
お父さんは、自分も卒業したこの学校に私を入れることで失明が回復することを期待した。斉藤先生の診断を当てにしたのだ。この学校の訓練では、イカイ先生の意見だけではなく斉藤先生の意見もあって、姿勢創造訓練と脳の活性化プログラムをリンクしてやっている。この手法は、世界的にもユニークで、まだ新しい方法らしい。
お父さんは、もともと私を、一種の特異体質者と考えていた。だから、失明が直るとしても、それは眼科医の仕事ではなく、脳外科医の仕事ではないかと見当をつけていた。それで、私がこの学校に入り、姿勢創造訓練と脳の活性化プログラムを同時に受けるようになったら、お父さんの期待通り、私の脳は特有の症状を示し、私は少しおかしな才能を発揮し始めた。その時の相棒がアスカだったことも、幸運だったみたい。アスカも、私とは別のタイプの特異体質者で、相乗効果を発揮したそうだ。斉藤先生は、こんな私の様子を見て、面白いと思ったらしく、必要な手術のアイデアをつかんだそうだ。
私はなぜか、斉藤先生は信頼できた。明るい性格と暗い面が何だかいい具合に混じった感じで、先生の雰囲気が好きだった。だから、先生に最初に手術を提案された時、「お願いします」と素直に言えた。お父さんもお母さんも、もちろん反対しなかった。そして、先生の診断に従い、脳の言語野と視覚野の神経回路の一部を手術したら、症状が改善し始めたという。半年前に改善の兆候が現れたので、あとはただ先生の言うことを聞いていればよかった。先生に「見えるようになりますか? その確率は?」と聞くと、「200パーセント。見えるようになる。心配しないで!」といつも答えてくれた。でも、もちろん心配だった。直ってみなければわからないからだ。病室にお祝いに来てくれた先生に、「ほんとうは、確率はどの位だったのですか?」と聞いたら、「正直、半々だった。ノアの信じる力が頼みだった」と言っていた。やはり幸運だったんだ。
たぶん、私の見たいと思う気持ちも作用した。私は、ある時から、世界がとても見たくなった。それまで、視覚がなくても世界を充分に感じていたし、正直、特別不自由とは感じていなかった。ずっとこのままでも構わないと思っていた。でも、ある時から、視覚が欲しいと思うようになった。特に、夢の中に出てくる空を飛ぶ少年について、私は同じ少年が現実の世界にも存在していると感じていたから、それを自分の目で確かめたくなった。

2 試練

実は、私は、5年前の12才の時に、他の病院にいて、ひどい目に遭っていた。だから、ほんとうは、手術はもうこりごりと心の底では思っていた。
5年前の病院は、私の住む近くの病院が紹介してくれた東京都内の大学病院で、その時の病気は別の病気だった。糖尿病に似た症状で、お腹に水がたまり、顔が月のようにふくれる病気。診断は、脳下垂体に腫瘍ができるクッシング症候群。珍しい病気で、年間の発症者は50人位。国から難病に指定されていた。家族はみんなすごく健康なのに、なぜ私だけが目が見えなかったり、こんな変な病気になったりするのか。それが理解ではなかった。神さまは不公平だと、悲しくて何度も怒って泣いた。
その病院はクッシング症候群の治療で全国的に有名だった。そして、その時の先生は、付き添ってきてくれたお母さんと私に、次のように宣告した。
「下垂体の検査を含め、血液やホルモン異常やすべての検査の結果から、クッシング症候群に間違いないと思います。ほっておけば、この病気の患者は5年以内に死亡しています。一日も早く手術を行い、脳下垂体から腫瘍を取り除く必要があると思います」
お母さんの顔が真っ青になった。私も、もちろん驚いた。
「なぜ、ノアに、そんな病気が?」とお母さんが聞いた。
「原因はまったくわかっていません。日本でも珍しい難病に指定されています」と医者は答えた。
私は、頭痛と吐き気の症状がひどく、自分ひとりで立って歩く体力もなく、顔はムーンフェイスだし、学校も一ヶ月も休んでいた。こんな苦痛からは一日も早く解放されたい。そして、私に手術を受けようと決心させたのは、先生の次の言葉だった。
「正しいかどうかはわかりません。私は脳外科医で、眼科の専門ではないので。ただ、ノアさんに小さい時に癲癇の症状があったこと。7才で原因不明で失明していること。それも脳下垂体の腫瘍が影響しているかも知れません。この腫瘍は目の視神経をつよく圧迫しますから。この腫瘍は良性ですが、脳の根幹にあるため、いろんな悪さをします」
先生の言うことが当たっているとすれば、私はこの手術で失明も直るかも知れない。私は、手術を受けることを決心した。家に帰り、お父さんとお母さんに私の希望を聞かれた時、私は「受けたい」と答えた。お母さんも、「そうね。先生の言葉を信頼して、賭けてみるしかないわね」と言った。お父さんも反対はしなかった。
しかし、その代償は大きかった。万一に備え、家族全員が付き添う必要がある開頭手術という大きなリスクを背負い、二ヶ月も入院したのに、結果は失敗。切除した脳下垂体の中にその腫瘍はなかった。
先生は手術の1週間後、集中治療室に移されまだ意識が朦朧としていた私のベッドで、お母さんに淡々として言った。
「99パーセントの確率であるはずの腫瘍がありませんでした。クッシング症候群の診断は間違っていないはずなので、他のホルモン中枢に腫瘍が移動している可能性があります。副腎を検査し、副腎にあるという結果で出た場合には再手術をしたいと思いますが、どうされますか? 判断は急ぐべきであると思います」
私は、顔がパンパンに腫れ上がり、術後の痛みがものすごく、完全な脱力状態だったし、何も言えなかった。お母さんが先生に食ってかかった。こういう時のお母さんはすごく頼もしい。
「先生! この子の副腎も切るつもりですか! まず、先生の脳下垂体に腫瘍があるという診断が間違っていたことに対する謝罪と説明はないのですか? あるはずのものがなかったわけだから、先生の診断は間違っていた」
「手術同意書には、こういう場合もあり得ることが書いてありますが」
先生は涼しい顔で答えている。場慣れしているのだ
「無責任です! 今回のことをきちんしてから、次の話しをすべきです。先生は、副腎も切ってそこにも腫瘍が無かったらどうするのですか。同じことを言うのですか? 確率の問題だから仕方ないと。そして、また別のホルモン中枢ですか? 次は甲状腺ですか?」
お母さんはカンカンに怒ってしまった。こんなに怒ったお母さんをはじめて見た。私も同じ気持ちだった。ヒドイ先生、と思った。私に対するすまないという気持ちはないみたい。私は、1週間後、お母さんにつき添われて退院した。
お母さんの判断は正解だった。私の症状はその後も続いて苦しかったけど、お父さんが私と同じような症状を持ちながら中国漢方で直したという人の情報を手に入れた。お父さんの情報網はすごい。どこからそんな情報を仕入れてくるのだろうか。そして行動の決断が早い。思えばどこにだって飛び出していく。いつも家族の身になって考えてくれるので、お父さんはお母さんからもすごく信頼されている。
私はさっそく試した。
そして、何と、半年後にはこの症状がすっかり消えてしまった。
まるで魔法みたいに。
後になり、お父さんが探し出した別の病院で診察を受けた時、私の症状は変形の糖尿病で、クッシング症候群に似ていただけのことがわかった。クッシング症候群という診断は誤診だった。同じくお父さんからの情報で、あの時の先生は手術の成功事例を増やしたくてしかたない人で、患者にすぐに手術を勧めることでも有名なことがわかった。おかげで、私は脳下垂体を切除し、ホルモンを補う薬を一生飲みつづけなければならない。もちろん、失明の回復にも何の効果もなかった。
でも、悪いことばかりではなかった。お父さんが、意地でも私の失明の原因を探ろうと決意したのは、この時だから。お母さんも頼りになるけど、お父さんもすごい。
後でお父さんに聞いたところでは、お父さんは私に中国漢方が効いたことで、失明の原因がもし心因性にあるなら直る可能性もあると考えるようになったそうだ。私もそう思いたかった。
こうして、お父さんによる新しいお医者探しが始まった。そして、そのお医者さんの組合せは、思いかげず近いところにあった。それが、スペーストンネル少年少女学校の校長のイカイ先生と、斉藤先生だったのだ。斉藤先生は、西洋医学の脳外科の先生だけど、特に中国漢方を含むアジアの医療に詳しくてそれも治療に取り入れている。考え方の広い先生だった。私は、スペーストンネル少年少女学校に入り、斉藤先生の治療を受けることで、手術もしないで失明が直った。この遠回りの道のりを感謝したい。

3 聴覚や触覚でモノのかたちを見る

斉藤先生の病院から退院した後、私はまさに生き返った感じで、猛烈に勉強をはじめた。
脳の仕組みも、自分の感覚を頼りに少しわかってきたので、斉藤先生が勧めるBMIによる新しい学習方法も身につけた。スペーストンネル少年少女学校での成績は抜群にアップした。こんなやり方があるなんて。これまでの学校の先生はもちろん、友だちも誰も知らない。
それで、つい最近『動物感覚』という本で読んだばかりだけど、自閉症の動物学者として有名なアメリカのテンプル・グランディン先生は、人の言葉を聞いた時、それを映像に自動的に翻訳して「見る」という。相手の言うことを、言葉として考えて理解するのではなく、映像として見るらしい。すごいと思う。何だか、とてもわかる気がする。そしてテンプル先生は、牛が特別に好きで、牛の気持ちや感覚も、牛が取っている姿勢を自分も取ることで、理解できるそうだ。それついては、私も毎日学校で姿勢創造訓練をしているので、まったく共感できる。テンプル先生が高校生の時に開発したという「不安解消抱きしめマシン」も有名で、何だか私も自分のことのように嬉しい。極度に不安になった時や痙攣が始まった時に、このマシンに入り身体を締め付けると、天国に行ったような気分で、どんな症状も治るそうだ。テンプル先生は、別の人の本では「火星の人類学者」と紹介されていた。
私は、何だか自分がテンプル先生に近い存在なのかも知れないと思う。というのも、私は小さい時は家で飼っていたアトムの犬小屋で一緒に寝るのが好きだったし、アトムと同じ姿勢でいると犬の言葉がわかると真剣に思っていたから。「私は、犬だ!」と叫ぶのが大好きだったことをよく覚えている。ご飯を食べた後はすぐ寝転んでいたので、親からは「ノアは牛みたい。寝てばかりいると牛になりますよ」と脅かされていたけど、実際その姿勢の時は自分を牛だと思っていたので仕方ない。時々癲癇の発作もあったので、はげしく震えるからだをお母さんにきつく抱きしめてもらうのも好きだった。きつく抱きしめてもらった時だけ、私は自分が人間のように感じた。だから、テンプル先生の「不安解消抱きしめマシン」はよくわかる気がするし、日本でも買えるなら私は今すぐにも欲しい。
私の場合、斉藤先生によれば、10年間の失明期間の間に、視覚を補うために、「聴覚や触覚でモノのかたちを見る」訓練を自然にやっていたことになるそうだ。そのため、言葉の力ではなく、映像感覚が進化しているはずだという。つまり、私も、テンプル先生の場合に似ていて、聴いたり触ることでモノのかたちを見ていて、脳の回路をふつうの人とは違う風に使っているという。
たしかに私は、失明してから、映像で考えるようになったような気がする。家族や友だちも、みんなすごく私のことを思いやってくれたけど、でもその思いやりには少し誤解も含まれていた。つまり、私は、みんなが心配してくれたほど、毎日「闇」の中で生活していたわけじゃない。私はいつも、周囲の音や感触から類推して周囲を「見ていた」し、人が私からどれ位離れて、どこにいるかも含めて、立体的に空間を感じていた。それで、私の目にも脳の中にも或る種の「光」があふれていた。真っ暗で怖い、という感覚とは違っていた。
そして、たぶん夢では、ふつうの人よりも豊かな夢を見ていたのでないかと思う。というのも、私自身、失明の前と後とでは、まったく違う種類の夢を見るようになったから。私は、失明してから2年ほどして、それまで見たことがない種類の一人の少年についての「詳しい夢」を続けて見るようになった。私が「詳しい」と言うのは、それが立体映像のように細部まで鮮明だったからだ。
私は、この少年を、すぐ近くから見たり、
遠くから見たり、
上の角度から見たり、
斜めの角度から見たり、
まるで建物の模型をいろんな角度から見るように、自由に選んで見ることができた。
少年の気持ちも自分のことのように、手に取るように感じた。
少年は、いつも泣いていた。
そして、時々私に話しかけてきた。
だから、よけいに私はこの少年が気になった。
なぜ泣いているのか、知りたかった。
この少年は、いつも私の街と郊外にある森の間を走って往来していた。森の中に大切な用事があったみたい。また、時々宇宙に出かけて来たと言っては、私に意味不明の事件の報告もした。私は、夢なのに、まるで現実であるかのような物語を、痛いような感覚をもって見るようになった。この少年は私の家族じゃない。でも、私には家族同然になった。感覚的に私とすごく近くに生きていると感じたからだ。
失明する以前の私の夢では、こんな少年は登場しなかったし、立体映像も見なかった。いろんな登場人物が登場してきたけど、彼らのことはすぐ忘れたし、何も覚えていない。
小学校4年生の時、私が教室で、面白いからふざけてみせただけだけど、少年の声で変な予言のようなことを口走るようになったので、友だちは私のことを宇宙少年と呼ぶ子も出てきた。その少年の夢はいまでも続いている。自由に立体的に見ることもできる。でも、失明が回復してからは回数が減っている。少年の顔も少しづつ変化をはじめている。大人になるの? 私のように? 少年は私が失明していた間のメッセンジャーだったのかも知れない。たぶん、いつか、現実に私の前に登場するための。

4 言語野と視覚野、問題を二つに分ける

私は、こんな調子で、イカイ先生の薦めもあったので、その後も斉藤先生について「脳の訓練」を続けることになった。斉藤先生によれば、私の事例はかなりユニークということ。私は他の例を知らないので、何がユニークなのか、私に何が起きているのかは、依然としてよくわからない。でも、それでも構わない。私の脳の内部でむずむずしている部分を頼りに、それが何を意味するのかが明確になるように、斉藤先生を信じて訓練を続ければいいのだ。
具体的に、BMIを使ったエクササイズとして、学校で出される試験問題について、二つの種類に分類する訓練がはじまった。それは私の成績にも直接つながるし、実用向きなので、一石二鳥というのが先生の判断だった。
斉藤先生が出した訓練は、次のようなものだった。
深く考える必要がある問題は、言語野の方に振り分ける。
像として記憶していれば済むことは、視覚野の方に振り分ける。
問題を二つに整理して解決してください。
こんな操作は、私の主観に頼るわけだから不安だけど、感覚的には理解できる。私の場合は、別にBMIを使わなくても、何か言葉を聞いた時、映像で記憶する脳回路を無意識に優先するようになっている。下地ができているのだ。だから、先生によれば、BMIを使うときは、意識的にこの脳回路を使う訓練をすればいい。それだけで、まだ不安定だった脳回路の安定性が増し、言語野も視覚野ももっと成長するそうだ。
実際に、私の成績が抜群にアップしたことを考えれば、先生の仮説は当たっているみたい。学校の勉強では、記憶しなければならないことがやたらに多い。でも、そのほとんどは、映像として記憶しておけば済む。それについていちいち考える必要はない。そして、考える必要がある時だけ、考える。言語野に対する負担が減っているので、その分だけ精神が冴えるという感じがする。以前はすぐに疲れて思考停止になりがちだったテーマも、今では驚くほど明晰に考えることができるようになった。一方で、記憶力は倍増した感じ。パソコンの記憶用ハードディスクをギガバイトからテラバイトに交換したのと同じような感覚だ。これはいい。要するに、言語野と視覚野を使い分けることで、脳の負担が軽くなり、私は疲れることが少なくなった。スッキリとは、こういう状態をいうのだと思う。
斉藤先生は、新・国連では、言葉を映像に高精度で翻訳できる新しいタイプの仮想メガネの開発グループに属しているとのことだ。だから、こういう話題は先生の専門なのだ。もちろん、私には疑問も限りなく湧いてくるので、何でも質問する。先生も私には親しみやすいので、何でも話せる。先生の方でも、私の顔を見る度にいつも私に声をかけてくれる。
「最近の調子はどうですか?」
私も元気よく答える。
「すごくいいです。成績もどんどん上がっています!」
「それはよかった。映像を任意に立体化して見る訓練も進んでいますか?」
「私はそれが特別に楽しい。苦痛になりません」
「ノアのその能力は、訓練でもっともっと成長しますよ」
私は最近の自分の疑問を先生に聞いてみた。
「先生。一つ質問があります。脳の活性化が大事っていろんな本に書いてありますけど、私の場合も脳を活性化しているの?」
「ノアの場合は、活性化ではなく、使い分け。一般的には、かえって活性化しない方がいいのです」
「えーっ、なぜですか?」
「脳が一つの全体として動く生き物だから。たとえば、Aという脳機能だけを活性化すると、全体の能力が落ちることがある。他の障害が出る場合もある。バランスを見ないといけないわけです。だから、Aにだけ注目しているお医者さんに出会うと、危険です。全体のことを考えていませんからね」
「それは大変! 私もいちど酷い目に会いました」
「ノアの脳下垂体を切除した手術が誤診だったことは、私もノアのお父さんから聞いていますよ」
でも、なぜか先生は、ニヤニヤしながら私の顔を見て言った。
「だから、ノアは、私にも注意しないとね。気がついたらとんでもない場所で目を覚ますかも知れない。私は人さらいかも知れないですよ」
先生はお茶目なので、また私をからかうつもりなのだ。私も先生に合わすことにする。その方が楽しいから。
「はい、注意します。先生は人さらい? 脳さらい?」
「昔は、脳さらいをやっていましたよ」
先生は不思議な人だ。時々私にはわからない時がある。こんな先生が、アスカのお父さんで私は嬉しい。先生は、最後にまとめに入った。
「要点は、むやみに脳を活性化する事は危険ということです。バランスに注意すべきで、ノアの場合も言語的思考と映像的思考の両方を大切にすべきです。どちらか一方だけに偏ってはいけない」
「それが、私が注意すべき学習の要点ですね」
「そう。脳マップの変化に注意して欲しい。ノアが時々訴える脳の内部のムズムズ感については、正確にはまだ正体がわかりません」
「私の夢の中の少年にも、まだ私は出会えていません」
「急ぐ必要はないですが」
「でも、私は、出来るだけ早く会いたい」
「多分、その日も近いと思います」
「先生は、私の少年についてもチェックしてくれるのですね?」
「もちろん、チェックします。それが私の仕事ですから。ノアの事例は私の研究にとっても特別。ノアが映像を任意に立体的に構成できる点が面白い。その関係で、ノアの言語野もどこまで成長するか。頑張れば、ノアは人がやっていない仕事をできるようになりますよ」
「私のような人間は増えていますか?」
「これから増えてきます。でも、ノアのように自覚的な脳の訓練をしている例はまだ少ないですが」
「私がどうなるかが重要ということですね」
「ノアには期待していますよ」
私の場合、失明していた時は辛かったけど、おかげで素晴らしい道が手に入りそう。感謝の気持ちを誰かに返したい。私は、近い将来にアスカと一緒に火星に行きたいと思っている。来年から、未成年者からも火星移住の募集が開始される。今では火星住民と地球住民との合体プログラムも順調に開始されていて、新しい火星都市の建設が始まっているのだ。
火星住民と地球住民との合体プログラムで、
火星で生まれる第一世代の子供たちが育ちはじめる。
私も、自分の子供は火星で産みたい。
火星に慣れたら、次は木星の衛星だ。テンプル先生のように、私も「惑星の人類学者」になれるだろうか? 斉藤先生は、人間が行ったことがない未知の場所でこそ私のような能力が役立つと教えてくれた。イカイ先生も、もちろん私を応援してくれる。新しいタイプの建築家とか、脳機能をフルに拡張した多次元コミュニケーションのオルガナイザーとか。そういう新しい仕事を私は火星や他の惑星でしたい。一体どうなるだろう? 誰も聞いたことがない、私にぴったりの仕事が待っている気がする。

【第12話】 電脳恋愛の光と影

1 電脳恋愛塾

私はエリカ。もうずいぶん長い年月を生きてきた気がする。
あまり長生きすると、自分の年齢はほんとうに忘れてしまうし、自分が女なのか男なのかわからない時もある。私は、若い時に人生のピンチに陥ったことがある。自殺未遂もした。でも、イカイと出会い、私の人生は一変した。イカイとの愛が私を救ってくれたのだ。愛の力がこんなにも大きいことを、私はその時に体験した。それ以来、私には、もちろん大変なことも沢山あり、最近ではエダの問題でイカイも私も大変なことになっているけど、基本的には楽しいだけの充実した人生が続いている。有り難いことだ。
私の仕事は、スペースチューブ・チューブロボット・秘書ロボットの3点セットを世界に普及させること。そして、イカイを手伝って『ヒト宇宙化計画』を成功させること。でも、そんな硬いテーマにだけ首を突っ込んで生きてきたわけでもない。私のもう一つの仕事は、電脳恋愛の光と影を描くこと。対象は「恋愛」。そのために、世界中から私を頼って集まってくる若い女たちのための塾もやってきた。最近はこの塾も大きくなり、忙しくなっていたところだ。彼女たちの悩みも、時代につれて複雑になっているし、悩みが解決されるとは限らない。それでも、彼女たちに直に接していると、自分の若い頃を新鮮な気持ちで思い出せるし、世界の動向についても感覚的につかめる気がするので、とても有意義だ。
それで、イカイから、いよいよ『ヒト宇宙化計画』の第2ステップが開始されるということで、私の塾を『電脳恋愛塾』として『ヒト宇宙化計画』の中に組み込むように要請された。光栄なことだ。恋愛も人間の普遍的テーマの一つ。もちろん、私は喜んで引き受けた。塾は私の個人的楽しみでやってきたけど、これからは『ヒト宇宙化計画』の一部として、男と女の「愛の技術」を高めることに貢献してみたい。どんな社会でも、その社会を動かすのは人間の欲望だ。だから、ここまで秘書ロボットのような人間の心に介入する技術が進んでいる時に、「愛の技術」も進化しているのかどうか。その実態を調査することは重要だ。調査の結果は、『ヒト宇宙化計画』推進に必要な基礎資料の一つとして役立ってくれる。
そもそも、スペーストンネルが開発され、人びとがロボットスーツを着用し、秘書ロボットをうまく使いこなすようになってきた現代におけるコミュニケーションの改革とは、一体何か? 結局、どんな変化が生じているのか。私は次のように考えてきた。
「動物とのつき合い方」が変わった。
「ロボットとのつき合い方」も変わった。
人間は死者や異星人ともつき合うようになった。
そのため、ミュニケーションの相手は人間だけではなくなり、「戦争の方法」も変わった。
「愛の技術」も変わった。
大きな変化は、この五つに集約されると私は思う。どの一つをとっても、それが革命的変化であることは間違いない。
人間にとっては、どんな場合にも、他者とのコミュニケーション能力に秀でることが最大の課題だ。愛の場合には、相手がどんな対象でも、相手を理解し、自分を理解し、相手と一体化すること。恋愛の場合には、愛するがゆえに、相手から最も遠い地点に離れることが必要なこともある。私の場合で言えば、メグミさんが、イカイを愛するがゆえに、死を選んだこと。そして、私の心に登場することで、イカイとの再会を果たしたこと。愛する人から離れることは辛い。それでも、幸運に恵まれる場合には、以前よりも関係が深まることがある。
どんな場合にも、自分を磨くことが重要になる。徹底的に自分を磨くこと。そして、自分の成長を楽しみ、相手の成長を楽しむこと。そうして、相手との一体化を図ること。一体化とは、魂と魂の結婚という心の問題だけではなく、具体的にも、相手が自分に役立ち、自分が相手に役立つという二つの関係を成立させることだ。これが、他者が存在する世界での人間の永遠の課題だ。一体化こそ、生きる喜びなのだ。だから、人間は、いつになっても一体化の仕掛けが大好きだ。そして、今では、一体化すべき相手が、人間だけではなく、動物や、ロボットや、死者や異星人にも拡大されというわけだ。
人間は、有史以来、ほんとうに苦労して、一体化の仕掛けを工夫してきた。そして、一体化の技術は、いつも恋愛において最高の高みに達する。
いまでは、世界中の多くの男と女が、お互いの秘書ロボットを携帯電話を操るように自由に操り、脳に侵入してお互いの心を読み合い、影響を与え合っている。そして、ハッキングにより、実際に相手の身体を動かしてみたり、自由に自分の姿を変えて相手の夢に出現したりして、より魅力的な出会いの可能性に挑戦している。
成功すれば、すごいことになる。
しかし、失敗すれば、惨憺たる結果を招く。
過去のどんな時代にも増して、相手から深く感謝されたり、反対に相手を深く傷つけることになる時代。その差は微妙だが、決定的な差になって現れる。なぜそんなに相手に感謝されることになるのか。本人にもわからない場合が多い。逆に、相手が望まないことをやってしまった場合には、深く恨まれることになる。だから、こんな恋愛の世界では、相手に対する繊細な配慮と、慎重な技術がますます要求される。巧妙な技術をもつ者と、未熟な者。その差は大きい。その結果、一方では、聞いたこともないような奇妙な失敗例が山のように積み上げられていく。他方では、輝くような美しい愛の物語が生まれていく。
以下の5つのケースは、私が塾で相談を受けたそれらのわかりやすい例である

2 秘めた愛

私の塾に相談に来たある女の場合は、「秘めた愛」だった。
彼女とその男は、高校生の時に恋人同士だった。しかし、青春の出来事としてよくあるように、つよく惹かれ合っていたのに、ささいなことに傷つき合い、ケンカして別れてしまった。こんな年頃は、小さな事件もまるでそれが世界全体のように感じてしまうナイーブな時期だから、仕方ないのかも知れない。そして、二人は偶然に、同じ会社の廊下ですれ違い、違う部署に属する者として稀な再会を果たした。そして、二人はお互いにいまでも好きなことに気がついた。しかし、どこにでもよくあるように、それぞれ家庭もちで、その家族を愛していた。
そのため、二人は、電脳空間の中での愛に限定し、現実への露出を完璧に避けた。誰も気づかない関係をつらぬいたのだ。昼休みには、同じビルの2階と3階のフロアーから互いの秘書ロボットを送り合い、脳に刺激を与え、秘書ロボットによる会話を成立させた。深夜になれば、お互いの家の自室に閉じこもり、パートナーや子供たちが眠った後に、ここでも秘書ロボットを送り合い、脳に刺激を与え、秘書ロボットによるつかの間のセックスを成立させた。こうして、二人は昼も夜も会い、その姿をそれぞれ仮想メガネで見て楽しんだ。恋愛はもともと二人だけの閉じた世界を形成することだから、誰にも知られないこのあり方も本望だった。
恋愛で大切なことは、二つの心が美しく通じ合っていることを、二人がお互いに確認できることだ。その点について二人には問題はなかった。二つの心の通じ合いは完璧だった。性愛は仮想体験だが、感覚面では充分に満たされていたから、かえって現実のセックスの制約に縛られないという利点もあった。二人は既に40代が近づいていた。そのため、高校生の時のはちきれるような若さから遠ざかったお互いの肉体について、気にせずに済んだことも助かった。年齢に制約されないということは、老後になってもこの関係を続けられることを意味する。それに、電脳空間の中の二人の秘書ロボットは、若い男と女の肉体のままだった。だから、このまま、この愛の形を持続させることができるのだ。それなら、これ以上何を不満を言う必要があるだろう?
しかし、やがて、最初に彼女の方から心配事が出てきた。彼との愛が高まるほど、どうしても夫や子供に対する罪悪感も高まってしまう。 彼に打ち明けると、彼も同じ心配を持ち始めたという。それは、秘密を持っているという意識で長期間生活していると、やがては罪の意識にとらわれ、苦しさのあまり、どちらかが先に周囲に告白してしまう可能性があるという心配だった。彼女の心配は当っている。一人だけで秘密を守る場合はまだいい。しかし、二人で秘密を守っていかなければならない場合、生活環境が違うのでお互いの間に疑心暗鬼の思いが生じることは仕方のないことだ。そこで、私は、次のようなアドバイスをした。
二人とも、ジキルとハイドのような二重人格者のような振る舞いをすること。
それで、自分たちが罪を犯しているという事実を忘れてしまうこと。
「そんなこと、出来ますか?」と彼女が聞いた。
「出来ますよ。人によって程度の差がありますが」
「考えてみたこともありません」
「完全に出来なくても大丈夫。少なくとも、その努力をすればいい。それで罪の意識は和らぎますよ」
「ほんとうですか?」
「ただ、その時に問題になるのは、あなたも彼も、ほんとうに罪を犯していると感じているのかどうか」
「どういうことでしょう?」
「あなたの場合はどうですか。夫を裏切っていることは、あなたにとってほんとうに罪なのかしら? それとも?」
しばらく考え込んでいた彼女は、「ほんとうは、どうして私が悪いのか、わかりません。運が悪いとしか言いようがない。夫が嫌いになったわけではないので。ただ今も彼を愛している自分を発見しただけなのです」と答えた。
「わかったわ。あなたには罪の意識はない。夫にわからないように、彼との関係を続けたいのね?」
「そうだと思います」と彼女は答えた。
「それなら、あなたはジキルとハイドのまねが出来ます。かなり完璧に」
「私が罪の意識を感じている場合は?」
「その場合は簡単ではないわね。でも、忘れたふりは出来ます」
私の経験では、こういうケースで本当に罪の意識を持っているかどうかは、50パーセントづつ。ただ、罪の意識を感じない場合でも、裏切っている相手に対する配慮は大切なので、それは可能な限りする必要がある。
「とにかく、大切なことは、今一番必要なことは何かをはっきりさせることね」
「家庭も守り、彼との関係も守りたい。その為にどうすればいいのか。それを教えて欲しくてここに来ました」
「家庭を守りたいあなたがジキルで、彼との関係を守りたいあなたがハイド。ジキルとハイドはお互いの存在を知りません。あなたの本心に変化がないなら、あなたには出来る。あなたが感じている現在の罪の意識は仮のもので、吹き飛ぶはず。彼にも相談してみてくださいね」
「実は、もう彼には聞きました。私と同じ気持ちだそうです」
この二人のケースでは、二人とも罪を感じていない。だから、秘密の恋愛をしているという意識さえ消せればいい。それで、彼女の夫と彼の妻を傷つけることもなく、二人の関係を続けられる。こういう努力をしているという事実が、二人の絆をさらに高めることにもなる。
「ただ・・・」
「ただ?」
彼女が怪訝そうな顔をしている。
「もう一つ聞いておきたいのは、その恋愛は秘密だから余計に盛り上がっているのかしら? 例えばセックスも、秘密で罪の意識に溢れていた方が快感がつよいわね」
「私も彼も、もう快感にはこだわっていないです。セックスは淡白でいい。大切なのは、心が繋がっていること。毎日、愛し合っていることを確認できるのが嬉しい。それだけで私はしびれてしまいます」
「それなら大丈夫ね。というのも、ジキルとハイドのまねがうまくなると、不倫をしているという事実を忘れてしまうので、セックスの快感は減少すると思う」
「私は、それでちっとも構いません。彼も同じだと思います」
半年後に彼女から連絡があり、二人ともジキルとハイドの生活が軌道に乗り、二人の家庭もうまく行っているとのこと。もちろん、それでも、周囲から祝福されることがない「秘めた愛」であることに変りはない。二人とも、愛を公にしていい立場にあったならこんなことはしていない。
私が評価したいのは、この関係が罪かどうかの議論はさておき、この苦しくも秘められた経験が二人の「絆」をさらにつよく育てているという点だ。「絆」を育てることも愛の大きな目的の一つ。二人はその目的を果たしている。二人の自我は、人間としても成長しているのではないかと私は思う。二人の秘書ロボットの技術レベルも高いため、二人の愛の交歓の光景はどんなハッカーにも破られることがなかった。それは厳重にロックされ、今後も周囲の関係者に暴露される心配はないはずだ。

3 遠隔恋愛

しかし、電脳恋愛には光もあれば影もある。
ある女は、恋人と「遠隔恋愛」を試みていた。女は東京に住み、男はパリに住んでいた。二人とも会社勤めのデザイナーで、二人が会えるのは、仕事が忙しいこともあり、それぞれがバリと東京に行く年2回だけ。その為、毎日お互いの秘書ロボットを送り合い、一週間に一度は秘書ロボットを通じてセックスしていた。しかし、女の技術が未熟だったため、予想もしなかったトラブルに見舞われることになった。相手にするものが脳に受け取る情報と刺激だけの電脳恋愛である以上、注意しないと大変なことになるという好例だ。
つまり、ある時、女は、恋人との交際の記録を会社の同僚の男に知られてしまった。うっかり、会社の自分のパソコンにその映像の一部をダウンロードしたのだ。女は、仕事中でも、寂しい時にその記録を見たくなり、記念写真を見るように見ていた。女に好意をもっていた近くの席に坐るその男は、女と毎日仕事上の連絡を社内ネットワークでやり取りしていた関係で、それを偶然、自分のパソコン上で見た。男はこれはチャンスと喜んだ。セキュリティもいい加減だったため、女のパスワードも簡単に手に入れた。
そして、或る日の夜、女の恋人の秘書ロボットが女の脳に来ていないことを慎重にチェックした上で、自分の秘書ロボットを女の脳に送り込み、女の恋人の姿に変装して女と会うことに成功した。女には、それが偽装であることを見破る技術がなかった。女は、その男に誘われるままにセックスした。そして、その後もしばらく、その差を判別できないまま関係を続けてしまった。このように、自分の相手ではないのにそう思って貴重な時間を過ごしてしまう男と女の滑稽な悲劇が、最近急上昇中なのである。
脳は快楽原則に従って動く。
脳は、自分に気持ちがいい刺激を与えられれば、それで充分。
真実であるかどうかに脳は関知しない。
だから、要注意。
今あなたを抱いている彼が、あなたの彼であるとは限らない。
脳の判断と、意識の判断は、たびたび食い違う。
要するに、自分の体験だけに酔ってはいけない。電脳空間で恋人と会う時には、恋人の仮想メガネに映っている映像も自分の仮想メガネに転送すること。相手がホンモノなら、そこにも二人の秘書ロボットが抱き合っている姿が映っている。相手が映像の転送を拒否する場合には、その恋人はニセモノ。その映像を確認しても、まだ違和感を感じる場合には、直接恋人に連絡し、確めること。高度な偽装の場合には、その転送映像も偽装されている。でも、恋人に連絡すれば、真相は明白だ。
女が恋人に行動を正すタイプの女であれば、その態度やセックスの仕方もいつもと違うことについてもいちいち確認したはずで、こんなことは起きなかっただろう。しかし、女は、男の積極性を喜んで受け入れる古風なタイプだったこともあり、その行動について恋人に問うことはしなかった。気づいた時には、もう遅かった。
恋人もやがて事実を知り、二人の間には亀裂が生まれた。女も深く傷ついた。恋人は関係を清算したいと言ったが、それだけは待ってと、あなたが必要と、女が必死に頼んだ。恋人の方でも女に未練があるようで、何とか関係は回復された。
しかし、しばらくすると、今度は女がひどい不安に襲われようになった。恋人の本当の気持ちがわからなくなってきたのだ。恋人は本当に自分を愛しているのか。女は、恋人から冷たいものを感じるようになっていた。結婚するためにも、女はそれを知りたいと思った。
恋人は、若手売り出し中のデザイナーで、一見してまじめなタイプ。しかし、女はそれは見かけに過ぎないことを知っていた。恋人は女好きで、過去にもいろんな女がいた。現在も複数の女とつき合いはじめた気配があった。恐らく、隠しているのだ。しかし、女には、気が弱いため、恋人に直接聞く勇気がなかった。聞いたとしても、ほんとうのことを言うはずがないと思った。だから、女は、秘密の作戦として、恋人の身体に直接聞いてみることにしたのだ。
それで、女は、自分の友人の中から恋人が好きになりそうなタイプの女を選び、内緒にするということで、その友人に恋人とセックスするように依頼する事にした。女は、まず、秘書ロボットを恋人の脳に送り、友人の姿を取って、夢の中で恋人を誘惑した。そして、女は、恋人の反応から友人に関心をもったことを確かめた。次に、女は、恋人が東京に出てくる日、その夜の得意先のパーティーに参加するように頼んだ。一方で、得意先は友人の会社でもあるため、友人にもパーティーに参加し、酒に酔わせて恋人を口説くように頼んだ。そして、当日になり、女は仮病を使い、自分だけパーティーに行けなくなったが、商談を兼ねているため重要との理由で自分の代理としてパーティーに行くように恋人に頼んだ。女は、一人でアパートに残り、仮想メガネで恋人の様子を検証することにした。もちろん、本心では、恋人が友人を拒絶することを期待していた。
しかし、恋人は、女のたくらみに気づいていたが、知らないふりをして、友人に口説かれ、誘われるままにホテルに行き、セックスを楽しんだ。女は、その時、恋人の脳を秘書ロボットを侵入させてしきりに調べたが、性感帯が通常の反応を示しているだけで、恋人が何を考えているのか、わからなかった。恋人が後悔することを期待したが、そんな反応も恋人の脳から読み取ることは出来なかった。
その夜、遅くに恋人は女のアパートに帰ってきたが、恋人はパーティーの様子を報告しただけで、何も言わなかった。次の日、女は恋人とセックスしたが、いつもの通りで、恋人の様子に変化はなかった。秘密なので、恋人がパリに戻る日になっても、女は恋人に聞くことは出来なかった。女は、恋人の気持ちがますますわからなくなった。
そして、1ヶ月が過ぎた頃、逆に、恋人が女にこの話題を持ち出した。「君は、僕を、ひどいやり方で、試したね」と言って女を責めた。もともと気の弱い女は、さらに弱くなった。女は、いい加減な男とは別れるとキッパリ言ってみたかったが、ますます言えなくなった。恋人は、自分から攻めることで心理的に女の優位に立ち、以前にも増して身勝手に振る舞うようになり、女を思いのままに支配した。これでは、二人の間に信頼関係は育たない。
私は女に聞いてみた。
「あなたは、友人とセックスした時の恋人の気持ちを今でも知りたいの?」
「知りたいです」
「馬鹿げてるわ。男はただ楽しんだだけよ。それも、悪魔になったような気分でね。男はあなたが死ぬほど心配していることを知っていた。だから、そんなあなたを裏切ることで、快楽を倍増させた。それもあなたをバカにしながらね。でも、あなたも知ってると思うけど、男だけがこうなんじゃない。こういう時は、女も同じよね。というか、女の方がもっと残酷」
「世間でいう悪い女のことですね?」
「そうね。悪い女。悪い女は徹底して自分の性を楽しむわ。あなたの彼の場合は悪い男。でも、悪い女も悪い男も、別に大した存在じゃないわ」
「どうしたらいいのでしょう?」
「だから、簡単。いくら大変でもね」
「つまり?」
「男に、あなたなど本当は目じゃないと告げること。思い切って、あなたの方から男から去ること。そうすれば、そんな男の愛の魔力など一瞬で効果を失うわ。だって、男のやり方はあなたの弱さを利用しているだけだから。大したことないのよ」
「去るなんて、私には出来ません」
「男の弱さを知ったら、あなたも行動できるわ」
「彼は弱くない。すごくつよい」
「女の弱さにつけこむ男は、全員が弱いのよ。つよい男はそんなことはしない。だから、彼の弱さを読み取り、それを彼に宣告すれば、彼は驚くわ。予想もしていないから」
「でも、私は彼にあなたは弱い男なんて言えそうもない」
「言えなくていいのよ。ただ、突然、去ればいい」
「突然ですか? でも、すぐに彼の秘書ロボットが追いかけてきます」
「それは大丈夫。あなたが返答さえしなければ、秘書ロボットにもあなたの居所はわからないわ」
「そうですか」
「思い切ってやってみたら?」
「たしかに。それは彼にも思いがけないことだと思います」
「そんな男には、思いがけないことが必要なの。彼がショックを受けたら、それが彼がまだあなたを当てにしている証拠。少し我慢していれば、彼があなたを探しにきて、自分から結婚して欲しいと言い出すかも知れない」
「ショックを受けなかったら?」
「その時はその時ね。一度自分から行動できたあなたは、もう以前のあなたと違っているわよ。あきらめて、別のもっといい男を捜せばいい。要するに、まだあなたが負けているとは限らないということ」
「わかりました。とにかく、やってみます」
私の判断では、この男はただわがままにやりたいだけ。弱い男の典型。だから、恐らくは、この女を必要としている。結婚したいのは女よりも、男かも知れない。いずれにしても、女が去れば、男の本心が現れる。女は、男の本心を掴まなければ、利用されるだけ。本心を掴み、その上で注文をつけ、男を支配すること。それが女の「愛の技術」の勝利だ。こんな技術は、別に『電脳恋愛塾』に固有の技術でも何でもない普遍的なものだけど、現在も大きな力をもっていることに変りはない。

4 洗脳

「洗脳」にも多様な形式が現れた。
本来、恋愛とは、自分の魂を自分の心の外部に放出し、相手に差し出すこと。
それは、自分を相手に与えたいとつよく望むからだ。相手も同じ。だから、二人の恋人の間には二つの魂が無防備のまま存在することになる。恋愛では、相手の魂を焼いて食べるも、煮て食べるもまさに自由。愛することも、傷つけることも自由。どちらかに悪意が発生すれば、それは容易に行使される。思いを踏みにじられた時の被害が大きいのは、魂が無防備のままでいるからだ。だからこそ、間違った相手と恋愛すると大変なことになる。そして、途中で間違ったことに気がついても、もう遅い。これが恋愛の魔力だ。人は恋愛に嵌ったら、誰もこの魔力から逃げることはできない。何度痛い目を見てその危険性について学習しても、役に立たない。何度でも、人は同じ過ちを繰り返す。
塾に相談に来た高校3年生の女は、体質的に巫女的な感覚をもち、或る程度の洗脳の力をもっていた。それで、この恋愛の魔力も利用し、自分を好きだと言って何度もセックスしたのにその後は冷たくなった担任の若い先生に対して、秘書ロボットを使った洗脳を試みた。担任の先生は、本当は今でもその女が好きだったが、浮気者で他にも若い恋人を持っていた。女と問題を起こすことで、関係が学校に公けになることを恐れていたのだ。
或る日、女は、こんなケースでは極端な方法が必要と考えて、「先生が好きです。先生も私を好きと言って抱いてくれたのに、今では知らん顔。教室でも、廊下ですれ違っても、先生は私と目を合わさない。もう限界です。先生は、私が卒業したら結婚してくれると言った約束を忘れたのね。辛くて、もう生きていられません」という真実とウソが混じったような手紙を書き、親と、担任の先生と、クラスのお喋りな友人と、学校の校長宛てに送った。そして、死には至らないことを計算した上で睡眠薬を飲み、自殺を図った。女は救急車で病院に搬送されたが、すぐに回復し、命に別状はなかった。翌日の学校では、お喋りな友人から女が自殺未遂を図ったことが知らされ、その原因が生徒の担任であることも暴露され、大騒ぎになった。
こんなことをされては、担任の先生もたまったものではない。事態収拾のため動く必要があった。しかし、確かにセックスした相手なので、結婚の約束などしていなかったが、どんな釈明も周囲に対して説得力をもつとは思えない。担任の先生は途方に暮れた。そして、この状態を、洗脳の力をもち心の駆け引きがうまい女は待っていた。
2日後、まず女は、秘書ロボットを彼の脳に侵入させ、「私です。先生は今でも私が好きなのよ。先生は言えないだけなのよ」というメッセージを送った。案の定、彼の脳では大きな反応が起きた。女にはそれがわかった。彼のように動揺した心の動きを読み取ることは簡単だった。
次に、冷たくなった原因が新しい恋人がいることを掴んでいた女は、ふたたび秘書ロボットを彼の脳に侵入させ、彼の新しい恋人の姿を取り、誘惑した。反応があったため、今度は洗脳の力をこめ、実際に男を動かし、夢遊病に近い形で男に自分と本当のセックスをさせた。男にとっては新しい恋人とのセックス。実際にはその女とのセックス。男は弱っていたため、通常では出来ないことが通用した。そして、ひそかにそのセックスの様子を撮影し、その映像を男の新しい恋人に送りつけた。それを見た恋人は、傷つき、男を責め、男から去った。男は、恋人とセックスしたはずなのに、なぜこんな映像が流されたのか理解できなかった。
そして、味をしめた女は、次の作戦に出た。男を操作できると過信した女は、今度は男の脳に送る像を新しい恋人の姿から自分の姿に入れ替え、その変化にも男が疑問を持たないように男に対する洗脳を試みた。女にしても、自分とセックスしているのに新しい恋人のとセックスと男に思われている関係は耐えがたかったからだ。そのため、男に告白してしまった。実際に男がセックスしたのは自分なので、自分を受け入れて欲しいと頼んだ。
さすがに、男は、この女の像を見た瞬間に、すべてを理解した。男は、それは拒否し、女が何をしたかを学校に訴えた。騒ぎが大きくなることを恐れていた学校は、男と相談し、女には処罰を下さず、男を他校に赴任させることで事態を丸く収めた。後ろめたさを抱えてしまった女は、何も出来なかった。
女は、せめて、最初のステージだけで我慢すべきだった。或いは、最初から、自分の像を送り、気長に気に入ってもらえるような努力をすべきだった。すぐに効果がなくても、彼に役立つことを探し出し奉仕していれば、いつかチャンスが巡って来たかも知れないからだ。
私は、相談に来た女に言った。
「あなたはバカよ。せっかくの洗脳力をうまく使えていない」
「どうすればよかったのですか?」
「あなたは、担任の先生に別の恋人もいたけど、あなたの事も好きだったことを掴んだわけでしょ?」
「はい。ただ、先生は臆病で、二股をかけていることを私に知られるのを恐れていました」
「あなたは、その点をつき、先生を攻撃してしまった」
「そういうことになります。辛くて、もう待っていられなかったから」
「私なら、先生があなたをまだ好きという点だけに絞って洗脳の力を使うわね。だって、あなたを好きという事は、あなたに直に心に侵入されたらとても弱いわよ。あなたの洗脳の力が有効に働くなら、あなたはしっかりと先生の心を握れたはず。先生は、あなたのことも好きなので、拒否できない。あなたはそこであなたの愛をもっと訴えればよかった。現に、あなたの侵入に対しても先生は大きく反応したじゃない」
「たしかにそうです。でも反応したのは、先生が弱っていたからだと思います」
「よく考えてごらんなさい。あなたが先生を攻撃しないで、他の女のことも責めないで、ただあなたの愛だけを訴えて先生に優しく接していたら、気の弱い先生はどうなるか」
「私のことをもっと考えてくれたかも知れません」
「そうして、先生の魂を握った上で、先生にあなたとその女とどっちを選ぶか選択させたら、効果があったと思わない? もちろん、多少は先生を脅してもいいわよね。先生もずるい人だから」
「どんな?」
「やわらかく、先生が私を選んでくれないなら本気で死ぬわ、くらいで」
「効果がありますか?」
「あるわよ。先生は臆病だから。それに、もう一人の女は、先生があなたとも関係があることを知り怒って去ったわね。でも、あなたは、先生に他の恋人がいることを知っていたのに、先生に愛して欲しかった」
「たしかにそうです」
「男はそこまで愛してくれる女に、とても弱いわ。それに、人生はいい時ばかりじゃないから、誰だって本当に頼りになる相手が欲しいわね。あなたはその最大の候補として残ったはず」
「私が先生を愛し続けることで、先生を取り戻せたということですね?」
「その可能性が高かった。あなたが自分の洗脳の力をもっとうまく使っていたらね」
「わかりました。今からでは、もう遅いですか?」
「先生が困っているなら、ムリじゃないわね。先生のことが本当に好きなら、まだチャンスがありそうね」
「トライしてみます」
恋愛した相手と再会した時に心が大きく動揺する場合には、自分の魂がまだその相手の前に差し出されたたままになっている可能性が高い。このような魂は、相手が自分の魂を自分の心に収めてしまっている場合には、ずっと宙に彷徨ったままだ。自分一人では回収できない。相手の協力が必要なのだ。
彼女の場合、魂が憧れで一杯で大きく外に飛び出しているわけだから、早い時期に先生に会いに行き、先生の心を確かめる必要がある。もう次の女と遊んでいたとか、愛するに値しない男であることがわかれば、気持ちも自然に冷め、魂も戻ってくる。反対に、今でも彼女が好きで、彼女が来てくれるのを待っていたとすれば、二つの魂はめでたく合体できる。彼女の洗脳の力は、その合体の堅固さと美しさをつくるために使われるべきだろう。

5 複数の愛

人間の意識が進み、多様なコミュニケーションが重要視されるようになった現代では、恋愛の世界でも、男と女の一対一の関係を至上とする恋愛は「古典的な恋愛」と呼ばれるようになった。そして、少数派とはいえ、男と女がそれぞれ複数の恋人を持つ「新しい恋愛」も登場するようになり、それまで存在したことがない多くのトラブルが発生する一方で、恋愛とは何かについて、また複数の人格とは何かについて、世間に大きな議論を巻き起こすことになった。
ある女は、自分も複数の恋人と付き合いたいし、自分にもそれが出来ると思うようなった。それまで、女は、一人の男とつき合っている時はその男だけを愛し、その男にだけ尽くして、他の男には関心を示さないことを「よし」として生きてきた。しかし、或る日、ネットで電脳恋愛ゲームを経験した時、自分には複数の人格が存在すること、その人格に応じて自分の考えも好みも違っていることを知った。それはショックだった。そして新しい発見でもあった。そんな結果が出るのは10人の内の1人という1割位の確率で、決して多くはないという。それでも、このゲームは有名なゲームで社会的に信頼されていたし、女は自分に違和感を感じていたこともあり、その結果を信じた。
それで、本当に自分に複数の人格が存在するのかどうかを確認したかったかったこともあり、それまでの恋人の男Aの他に、男Bとも恋人として付き合ってみることにした。それで自分が変化するのか知りたかったのだ。実際に、女は男Bにも惹かれていた。但し、もちろん、男Aには内緒で。幸い、女の電脳恋愛の技術も高かったので、男Aに自分の脳の変化を読み取られることもなかった。こうして、女は、3ヶ月ほどの間、男Aと男Bを同時に愛し、女は自分が飛躍的に豊かになった気がした。自分の人格も、男Aと一緒の時にはこれまでと同じ人格Aで、男Bと一緒の時にはこれまで知らなかった新しい人格Bに変化するように感じた。そのため、その関係はうまく行くように見えた。
しかし、別の日に、男Aから、男Aも他の女も恋人にしたことを告白された。女はそれを聞き、嫉妬し、逆上して、「そんなこと、絶対に許せない!」と叫んでしまった。自分でも同じことをしているので、理性では理解できた。しかし、感情が許さなかった。当然、男Aがそれでは納得するはずがない。実は男Aも女が他の男とも付き合っていることを知っていて、ずっと我慢していたのだ。それで、認めないなら別れると男Aに言われ、悩んでいるという。
私は、彼女に聞いた。
「あなたは、二人の男とつき合うようになって本当に自分が豊かになったと感じたの?」
「はい。それはもう。豊かになったし、自分を取り戻せた気がします」
「それなら、恋人のことも許せるわね?」
「私も許したい。彼も私のしたことを認めてくれていたから」
「でも、感情では許せない?」
「はい。どうしても」
「でも、彼も我慢してきた」
「我慢してくれてたのは嬉しいけど、でも私は我慢する関係は好きじゃない」
「あなただけは我慢したくない?」
「私だけじゃなくて、彼にも我慢して欲しくない」
「じゃ、別れるしかないわね」
「そんな。彼と別れたら元も子もなくなります。彼が一番大切な人だから」
「もう一人の彼も大切なの?」
「もう一人の彼は、私の中に住むもう一人の私が求めている人」
「あなたは、二人の自分を満足させたいのね?」
「そうだと思います」
「そんなに大きなことを、何の犠牲も払わないで手に入ると思うの。甘くない?」
「私もそう思うので、相談に来ました」
私は女に言った。
「複数の恋愛」の喜びは、
複数の相手を恋人として楽しむことだけじゃない。
感情的には受け入れ難い複数の相手の欲求を受け入れることで、自分の自我を大きくすること。
その喜びを知ると、どんな苦痛にも耐えられる。
「自我を大きくする喜びって?」
「あなたはまだわかっていないよ。自我を大きくすることが、あなたが望んでいる複数の人格をもつということなの」
「同じことですか?」
「同じことね」
「私は、自分が単なるナルシストかも知れないって、怖くなります」
「あなたはナルシストじゃない。ナルシストには自分の利益だけが重要で、相手に苦痛を強いても平気。あなたのように悩まない。ナルシストには、自我の拡大が最大の楽しみであることがわからない」
「でも、私は、具体的に、どうすればいいのですか?」
「それは明解ね。あなたが彼を許すこと。もう一人の彼に対しても、許しを乞うこと」
「もう一人の彼にも?」
「当然でしょ? そして、その彼も複数の恋人を持つ場合には、それも許すこと。愛が、自分が相手の役に立つことでもある以上、相手を認めるしかないわね。それが我慢の結果でも」
「難しそう」
「やるしかないわね。あなたは自分の潜在的欲求を満たさないと満足しないわけだから」
「こつはありますか」
「それはありますよ。二人の恋人とも、ほんとうはもう一つのあなたの姿のことで、自分の分身と感じること」
「私の分身?」
「そうね。あなたの分身。分身なら、あなたにも大切よね。不可能でも、そう感じられように努力すること」
「やってみます」
「それではじめてあなたは自我を大きくし、複数の人格を手に入れる。でも、注意が必要よ」
「どんな注意ですか?」
「あなたの相手を務めることができる男は多くはないから。あなたのように複数の人格を持ちたいなんて女も少ないし、男も少ない。間違った男と関係をもっても不毛な結果が待っているだけ」
「私は少数派ということですね」
「そう。少数派」
「どうしたら、彼らが私の求める人だということがわかりますか」
「二人の恋人が、本当にあなたを許しているかどうか。あなたのやり方が彼らを傷つけていないかどうか。彼らもまた、あなたと同じように豊かになっているかどうか。それがチェックできた時。彼らの潜在意識にも侵入して慎重に確かめないとダメね」
「それが愛の証しなのですね。でも、その判定は難しいのでは?」
「すぐにはわからない。一定の時間が必要ね。表向きに言うことと内面で起きていることは違うから。でも、うまく行くなら、あなたは思いがけない人生を生きることになるわね」
「私は、これからは思いがけない人生を生きたいと思います」
今はまだ少数派だとしても、時代が進むほど、私はこういう女が増えていくように感じる。私自身は、「古典的な恋愛」でも、「新しい恋愛」でも、どちらでもいいと思う。肝心なことは、真実の愛を体験することだけ。だから、誰もが、自分の性格に応じて、自由に選択すればいい。
ただ、「新しい恋愛」が増えていくのば、愛の目標が一体化であり、その一体化すべき相手が人間だけではなく、動物や、ロボットや、死者や異星人にも拡大されている時勢にあっては、「新しい恋愛」がその為に必要な「複数の自我」を獲得しやすい、と思われるからだ。
そのために、「新しい恋愛」は時代を先取りし、時代の先端を走るモードになる可能性がある。私たちの自我は、受け入れるものが大きくなることで、自分も大きくなる。そして、自我が大きくなり他人事を自分事として感じる量を多くできる者ほど、豊かな人生を生きられるように思える。

6 合体

ある男は、死んでしまった初恋の恋人が忘れられずにいたところ、偶然にもその恋人にそっくりの女に出会った。これも、世界中のどこにでもある「よくある話し」だ。
幸運にも二人は恋に落ちた。
そして、男は、二人の関係が愛の関係として安定した後、初恋の恋人のことを話し、写真も見せて、女が初恋の恋人に似ていることを打ち明けた。その後、男は秘書ロボットで女の心に侵入し、初恋の恋人の記憶を移植した。そして、自分は記憶喪失者になったふりをして、女を初恋の恋人の名で呼び、初恋の恋人として扱いはじめた。女は、そんな男に対し、はじめはつよく反発した。しかし、男を深く愛するようになっていたために、なぜか男の気持ちも、男の死んだ恋人の気持ちも、理解できるような変な気分になってきた。そして、男の洗脳能力が高かったことが影響しているが、自分はその女なのだと錯覚する時も出てきて、自分でもその役を演じてもいいのではないかと思いはじめた。それで自分に対する男の愛がもっと深くなるというなら、考えてみればなぜ自分がそれほど自分にこだわる必要があるのか、その理由がないと思いはじめたからだ。
女は次のように考えた。
私の生き甲斐は、愛。
私と彼の愛を深めるためなら、私は何だってする。
自分さえしっかりしているなら、
私は男の初恋の恋人を自分の心に住まわせてもいい。
そうすれば、彼に無理強いされて演技するのではなく、
私の方で、自分がその女だと思えるようになるかしら。
それ以来、女は、男に初恋の恋人の名で呼ばれた時、「はい」と返事をすることにした。これが自分が選んだ演技であることを自分でちゃんと分かっていれば、構わないと思えたからだ。男は、女の変化を見て、「君の内部で、君と、僕の昔の恋人と、僕の大事な二人の女が合体をはじめた」と言って喜んだ。女も、この男の言葉で、男が私のことは私のこととしてちゃんと認識してくれていることを確認できた。
しかし、それから間もなくして、女に変調が起きた。精神に支障を来たしたのだ。女は、「私は、誰?」と男に訴えはじめた。女は、最初は理解してやっているつもりが、或る日を境に、何が何だかわからなくなってきた。女の内部では、男の元恋人への同化が本当にはじまってしまったのかも知れない。女は、男の元恋人になってしまうのか。男はそれを喜ぶばかりなので、真実を保証してくれる存在がどこにもいなくなった。
母親に連れられて相談にやってきた女に、私は言った。女は、小刻みに身体を揺らしている。目つきもおかしい。ここにやっとのことで来た様子だ。出来るだけ早く安心させてあげた方がいい。
「お話は、複雑じゃなくて、単純ね」
「どうして? 私はもう、混乱して気が狂いそうなのに」
「あなたは、今は、誰?」
「えっ? 私は、私・・・」
女が口ごもっている。
「その私は、あなた? それとも、男の元恋人なの?」
「それは、わからない・・・。でも、私は、私」
「あなたが自分を男の元恋人と感じる時、あなたの中であなたが反乱を起こすのよ。人間の自我は、そんなに弱いものじゃないわ。あなたがその元恋人になることは、永遠にあり得ない。あなたからあなたへの反乱に、あなたが答えてあげないから、あなたが行き場所を失った。このままほっておくと、あなたはほんとうに狂うわよ」
母親が何か言いかけたが、私はそれを静止し、女にだけ答えるように求めた。
「どうすればいいのですか?」と女は聞いた。
「最初に言ったように、お話しは単純。しっかりしないといけませんよ。複雑と思うと、混乱が深まるだけ。あなたがすべきことは、彼にあなたの振る舞いが演技であることを認めさせること。たったそれだけ。単純でしょ?」
「それだけですか? でも、彼は認めてくれるかしら?」
「認めないと、本当に私は狂うと、告げなさい。こんな話しは、あなたが演技としてやれる場合にだけ可能なの」
「頼んでみます」
「もう一つ。彼がここまであなたを追い詰めておいて、この先もその演技がまだ必要なのかも聞いてね。もう不要になったと言ってくれるのが一番いい」
「必要と言ったら?」
「あなたが考えて、出来ると思うならやればいい」
「わかりました。あくまで演技として」
「そうね。あくまで演技として。そうすれば、あなたの病気はウソのように治ります」
このような事例は、男の洗脳の力が強いか、女の自我が弱いか、どちらかの場合にしか成立しない。そして、成立しても、愛の事件としてどう評価すべきかは難しい。女は、たしかにそこまでして男に奉仕している。でも、その姿をもって愛であるとは言えない。男が女を愛しているなら、女を狂気に追いやるようなことを強いたりしない。男は、女を洗脳するのではなく、まずは自分の想像力を鍛えるべきだ。女には黙ったまま、女に元恋人の姿を重ねていけばいい。男が、女を元恋人と錯覚できればいいだけの話しだ。どうしても不足の場合にだけ、女に頼んでみればいい。男は、それをしていない。それで男は女を愛していると言えるのか。女を愛したのではなく、元恋人への執着だけが異様に膨れ上がっただけではないのか。

しかし、私の場合も、これとよく似たケースから始まった。
私はイカイに、イカイが大学生の時の恋人のメグミさんのことで苦しんでいる時に、偶然に再会したことになっていた。でも、イカイに話したように、それは偶然ではなかった。メグミさんと相談し、偶然の出会いを演出しただけだった。しかも、彼が傷ついていなければ私たちの関係が再燃することもなかった。あの時、私はイカイが陥っていた心の地獄から救い出したけど、それも私の心の中に住んでいたメグミさんとの共同作戦だった。
私の場合には、相談に来た女とは違い、私の人格の一部としてメグミさんを受け入れることがうまく行った。私には利害があり、彼女を受け入れることでイカイとの関係が回復することを知っていたからだ。
たしかに、相談に来た女の場合にも、男の元恋人を受け入れることで男との愛が深まるという利害があった。しかし、その作業は、男と女の二人による作業で、私の場合のように、男の元恋人に当るメグミさんと私との作業ではなかった。その点が違う。つまり、メグミさんと私との間には協力関係があったのに、男の元恋人と女との直接の接触はなく、元恋人は男によって女の脳に移植された記憶に過ぎなかった。それでは、メグミさんと私のような親密な関係は生まれない。男が元恋人を追想したかっただけで、元恋人の方でも男に会いたかったわけではなかったからだ。
もちろん、私の場合にも、疑問は残されている。もし、メグミさんがイカイに会いたくて私の心に住みついていたのではなく、メグミさんを私に送り込んだのがイカイの無意識だったとしたら? イカイは口では自分は知らないと言っていた。でも、無意識での出来事なら、イカイにもわからない。その場合には、私の場合も女の場合に似てくる。イカイは、死んでしまったメグミさんに、憎悪を含めて、つよく執着していた。だから、メグミさんの記憶をイカイが私に送り込んだ可能性は、否定できない。そういえば、私はその頃は注意していなかったけど、私とメグミさんの顔はよく似ているのだ。イカイが私をふたたび愛してくれたのも、私がメグミさんに似ていたからではないのか?
もしかしたら、イカイは今でも、平和な姿を取り戻したメグミさんも含めて私を愛しているのかも知れない。たしかに、私の中にはメグミさんが住んでいる。そうだとしても、それでもいいと、今なら思う。若い時には自分の中に他人を受け入れるなんて、思ってみたこともない。なぜだろう? 私も永く生きてきたから、もう自分にこだわっていないのかも知れない。
私の中に、誰が住んでいてもいい。何人でも構わない。
だって、その方が豊かなことかも知れないから。
私はメグミさんが好きで、彼女が私の夢に登場することを拒否しなかった。妹か姉のように感じていたのだ。実際、あの時は私がイカイを助けたかも知れないが、後半生ではずっと私が助けられてきた。イカイは、私の知らない外部の世界についてよく知っていた。一緒に住むようになってから、私もイカイを真似て外部の世界での冒険に乗り出すようになった。でも私は未熟だった。私が危険な状態になった時、救い出してくれたのはいつもイカイだった。そのうちイカイが私の先生になっていった。それにつれてメグミさんもますます私の心の中に色濃く住むようになった。私にはそれが幸福だった。

【第13話】 大家族の出現

1 因縁

私はサイード・S。
今年で102才になり、さすがに町を一人で歩くのは困難になってきた。

それにしても、確かに、人生には因縁というものがある。そうとしか言いようがないことが起きる。私の人生は、良くも悪くも波乱万丈だった。20才の時に親が破産し、アメリカに住む親類に引き取られて養子になり、パレスチナの大学からニューヨークの大学に移り、アメリカ国籍を取った。大学では航空宇宙工学を専攻。30才でパレスチナ人初のNASAの宇宙飛行士になり、宇宙に飛び立った。火星に行く途中で特別な体験をしたことがきっかけで哲学の勉強をはじめ、それが昂じて専門家になり、40才で宇宙飛行士をやめてから60才までは哲学者としてアメリカの大学で教えた。
その後にも、人生は思いがけない展開を迎えることになった。まず、離婚した妻の令子が行方不明になった。次に、令子を探す目的で新・国連にフジイ博士を訪ねたところ、その縁で新・国連と関係することになり、やがては世界中を訪問し、世界の紛争解決のための委員を務めるようになった。フジイ博士には『ヒト宇宙化計画』にも誘われ、その顧問にもなった。
フジイ博士とのつき合いは古い。最初の出会いは大学生の時だ。二人は同じニューヨーク大学の同級生で、それ以来80年に及ぶつき合いが続いている。妻同士も親友で、4人とも同じ大学で、学部は違うが同じ宇宙探査クラブに所属。私たちは結婚後も家族ぐるみのつき合いをしていた。
しかし、フジイ家がずっと円満で幸福だったのに比べ、私の家は反対で不幸の影がさすようになった。最愛の一人娘が自動車事故であっけなく死んだ。娘だけではなく、令子まで不幸なことになった。しかし、それらはすべて私が原因だった気がしてならない。令子と離婚し、その後に令子が行方不明になった頃は、私にはまったく余裕がなく、令子に訪れていた危機にも気づくことが出来なかったのだ。今考えてみれば、私がパレスチナ人として子供時代に負った心の傷がその後の人生にも影響し、不幸の連鎖が続き、それを断ち切れなかったようにも思えてくる。まさに因縁なのだ。
妻の令子とは、大学時代にニューヨークで国際結婚し、令子の故郷の日本には何度も二人で行った。彼女は東京の大学を中退し、私と同じニューヨーク大学に留学していた。彫刻家志望で、大学卒業後はニュージャージにある小学校の美術教師になり、次第に彫刻家としても活躍するようになった。娘も生まれ、結婚後の10年は私たちはとても幸福だった。しかし、ストレスを受けやすかった令子は30代に入ると毎日のように「疲れた」と訴えて学校から戻るようになり、体調を壊しはじめた。12才になったばかりの娘の突然の交通事故死が、それに追い討ちをかけた。令子だけでなく、私の心も沈みはじめた。
そして、ちょうど40才の令子の誕生日に、二人で台所で料理をしている最中に彼女は意識不明になり、倒れた。私は驚いてすぐに救急車で彼女を病院に連れて行ったが、診断は急性のアルツハイマー病だった。20年ほど前には、アルツハイマー病は新薬により神経細胞を増殖できるため数年の内に完治する病気として、楽観視される傾向にあった。しかし、それは医学界の驕りで、現在も不治の病であることに変わりはない。彼女のアルツハイマー病の症状は、ひどい物忘れや幻覚、被害妄想や突然の意識喪失などとして、ひどくなるばかりだった。空間認識もおかしくなるようで、時々家の中にいてもトイレの場所がわからなくなったと言って騒ぎ、泣き出すこともあった。
最初に台所で倒れた時の令子は、幸い意識はすぐに取り戻し不幸にはいたらず、入院も一週間で済んた。しかし、その後も月に一度は倒れるようになり、もはや自分一人での行動はムリと判断されて小学校も退職に追い込まれた。彫刻に対する熱意も失っていった。もともと勝気な性格のため、思い通りにならない自分の人生に無念の思いを募らせていたに違いないと思う。彼女の表情は次第に険しさを増し、笑顔が消え、一人で沈んでいることが多くなった。私は私で、大学も忙しかったこともあり、自分のトラウマに苦しんでいた時期でもあり、何の役にも立てなかった。彼女が何やら怪しい宗教に関係していることを知ったのは、そんな頃だった。
或る日、令子が外出した後何気なく彼女の机の上を見ると、彼女が置き忘れた見慣れないパンフレットがあった。以前テレビでも話題になったことがあるクール教団という名の新興宗教のもので、どんな難病も信仰によって治せると宣伝していた。若い頃の彼女なら、こんな宗教を信じるはずがない。しかし、悪いことばかりが起き、からだも悪くなり、夫も頼りにならないということで、彼女は一人で追い込まれて行くしかなかったのだろう。私は当時、彼女の顔色が物理的にも日ごとに黒ずんでいくのはなぜなのか、これもアルツハイマー病の症状の一つなのかも知れないと軽く考えていただけで、事態が深刻になっているとは想像していなかった。

その日、私は大学の自分で研究室で一本の電話を受けた。警察からだった。
「サイード博士でしょうか?」
「はい、そうですが」
「ニューヨーク警察です。奥さんの令子さんを保護していますので、引き取りに来ていただけますか? 奥さんは意識朦朧の状態ですが、命に別状はありません。その点はご安心を」
私は令子に何が起きたのか想像もつかず、非常に驚いた。
「令子に何があったのでしょうか?」
「ご存知なかったのですか? 奥さんからは何も聞かれていないのですね? 細胞提供のことも?」
「細胞提供? 知りません。一体、何のことですか?」
「奥さんはクローン人間を生産して販売する宗教団体に関係していました。詳しくは警察でお話しします。すぐに来ていただけますか? 逃亡の恐れもないので、自宅静養が可能です」
逃亡の恐れ? 自宅静養? 令子は一体何をしたのか。私は、何も手がつかないまま急いで自分の車で警察に駆けつけた。そして、憔悴し切った彼女が、一人でポツンと警察の医務室のベッドに坐っているのを見た。服は彼女が今朝出かけた時のままだ。
「令子。一体どうしたんだ? 大丈夫か? 何があったんだ?」
「・・・・・・」
「令子、私だよ。わかるか?」
「・・・・・・」
令子も私を見た。しかし、ちらりと見ただけで、私に対して何の反応も示さなかった。またすぐにうつむいてしまった。何と、彼女には私がわからないようだった。今日一日でそこまで衰弱したのか。記憶喪失? 急速にアルツハイマー病が進行したのか。或いは、何か別の理由によるのか。私には見当もつかない。いずれにしても、妻は、私を忘れていた。私を長年連れ添った夫として認識しなかったのだ。こんなショックなことはない。
そして、警察の説明を聞き、私は心の底から驚いた。妻がそんなことにまで手を出していたとは。想定外だった。
警察によれば、令子は、この2年間、クール教団において、この教団の対外宣伝として利用されていた。『仙人プロジェクト』なるものの被験者を勤めていた。それも、教団に強制されたのではなく、アルツハイマー病が治るという理由で、自分から被験者をかって出た。一体どういうことだったのか。彼女にしてみれば、アルツハイマー病を治したかっただけに違いない。
しかし、警察の調査では、令子には知らされず、彼女は当時流行していた万能細胞を使用した人体再生のモデルにされていた。教団としては、病気の治癒が目的ではなく、彼女を通して多数の不死の存在をつくり出したかったらしい。クローン技術は、既に2015年頃にはマウス一匹から無数のマウスを生産することができるまでに進歩していた。クローン人間が存在することが実際に確認されて世界中を驚かせたのは、2025年のベイルートだった。それからもう25年以上が経過しているわけだから、どんな新種のクローン人間が存在していてもおかしくはない。
警察によれば、現在のクローンの最先端は、無限回生産可能なクローン人間を生産する技術の確立にあるという。確かに、一人の人間を無限回再生できるなら、ほぼこの人間と同じ存在が宇宙の終りまで存続していけることになる。これで、「人間は不死になった」と、言えないことはない。どうやら、クール教団も令子を使ってこの実験をしていたらしい。したがって、そのために、出発になる最初の人間が重要で、脳機能から内臓にいたるまで遺伝子的に「完璧な人間」である必要があった。そのため、彼女の身体は、脳だけではなく、内臓も含め、大胆に改良されたとのことだ。そして、その成果が遺伝子に刷り込まれ、彼女のコピーが理想的身体として遺伝子操作で生産された。既に、この二年間で、何人もの妻のクローン人間が売りに出されたとのことだ。
しかし、妻にとっては、結果は最悪だった。アルツハイマー病も治らず、脳だけではなくすべての内臓がいじられたことが原因で身体は極度に衰え、廃人同然の存在になった。彼女の顔が黒づんでいたのもその為だった。
警察は、教団の内部告発者からの通報により、『仙人プロジェクト』について知ったという。そして、医療行為を偽装したクローン人間生産と販売という違法行為が行われているという事実をつかみ、幹部逮捕のために教団に踏み込んだ。幹部らは既に逃亡した後だったが、そこに一人置き去りにされていた令子を保護したとの事だ。彼女は口も利けないほど衰弱した状態だった。ハンドバックの中の身分証明書から名前と住所を知り、私に連絡したという。
私は、妻に付き添っていた警察の担当者に尋ねた。彼が私に電話してきた警官のようだ。
「なぜ、令子だけが現場に残されていたのですか?」
その警官は、言いにくそうな顔をした。
「われわれにも詳細はわかりません。ただ、どうも、用済みということで置き去りにされたようです」
「用済み?」
「つまり、その、教団は奥さんから必要なデータをすべて取ってしまったため、もう必要ないということで。われわれはちょうどその時に踏み込んだようです」
「あなたは電話では、妻には逃亡の恐れがないため家に帰ってもいいと言われましたね? 逃亡とは、どういう意味ですか?」
警官は言いにくそうだ。
「いや、それは。奥さんの事件への関与に、不明な点が残されているもので」
「不明な点? まさか、妻もクローン人間生産の一味だったとおっしゃるのではないですよね?」
そんな風に言われては、私だって怒らざるをえない。
「いや、そこまでは。ただ」
「ただ、何ですか?」
「奥さんは彫刻家でしたね?」
警察はつまらない類推をしている。
「そんなバカな。彫刻とクローン人間に直接の関係などありませんよ」
「それはそうですが」
警察の類推は間違っている。彼らは彫刻と身体のデザインを結びつけているのだ。
「馬鹿馬鹿しい。妻がクローン人間のデザインに関わったなんて。そんなことをするはずがないでしょう。妻は、ただアルツハイマー病から解放されたかっただけのはずです」
「いや、むろん、警察としても、基本的にはそうだと認識していますよ。しかし」
「しかし、何ですか?」
「われわれは素人なのでわかりませんが、クール教団がなぜ奥さんに目をつけたのか。それが理解できないのです。病気からの救済を求めて宗教に走る者は、世間に沢山います。クール教団の信者は、推定ですがアメリカだけで30万人といわれている。膨大ですね。しかし、奥さんは、失礼ですが、お若くもないし、遺伝的にも特別に優勢だったわけではないとの鑑定結果が出ています。それでは、なぜ? なぜそんな奥さんをモデルとして使ったのか。クローン人間を形態的にも美しく完璧な存在に仕上げるために、奥さんの彫刻家としての能力に期待したのでは? 芸術家にはナルシストが多いそうですから、奥さんは自分という存在を修復し完璧にするために執念を燃やしたのではないでしょうか? 教団は奥さんにその特別な才能があることを見抜いた」
「あなた方の想像に過ぎない。妻に限ってそんなことはありえない。妻にそんな欲望が存在しないことは長い付き合いの中で私が一番知っています」
「しかし、残念ですが、関与を否定する証拠が出ていない以上、しばらくは警察の保護監視下に置くことになります。奥さんのクローン人間は、一体、何人つくられたのか。その数字はきわめて重要です。そして、どこで生きているのか。教団は販売後の彼らも関与するつもりなのか。将来的にも、大変なことになりますよ。奥さんがご存知なら、それについてもお聞きする必要があります。クローン人間はアメリカでは違法ですから、国内に生存していることが判明した場合は警察はすぐに保護しなければなりません」
「保護してどうするのですか?」
「国が管理するクローン専門病院に送ります」
「クローン専門病院? 初耳です。そこで何をするのですか? 矯正プログラムを施すとか?」
「それは警察にも秘密にされています」
「その病院に保護されているクローン人間は多いのですか?」
「多いようですね。噂ですが。内臓機能に優れたタイプ、知的才能に特化したタイプ、運動能力に優れたタイプ、アイドル美少女系など。社会的需要が多い順に、かなりの数のクローン人間が生産され、一部が販売されて世間に出回り、一部が病院に保護されているようです。とにかく、警察としては、そのような社会秩序を攪乱する違法行為を防止しなければなりません」
とんでもない話しだ。確かに、自分の関心を満たすクローン人間が販売されているなら、違法と知りつつも買いたいと思う者は存在するに違いない。切羽つまった欲求から、性的欲望や、高尚な欲求にいたるまで、その需要が級数的に膨張する一大産業になるというわけだ。妻はクール教団でその生産者側にされたというわけか。
令子は、警察から家に帰ってきた後も、一ヶ月間は記憶を失くしたままだった。一日三度の軽い食事以外は、ベッドで一人眠り続けた。自分がどこにいるのかもわかっていない様子で、私に対する態度もよそよそしかった。教団の離れとか、或いはどこかの病院にでも入院していると思っているのかも知れない。しかし、徐々に体力も回復したのか、或る日、突然私の名前を呼んだ。急に思い出したらしい。そして、神妙な顔をして私に言った。
「あなた。大切なお話しがあるの」
私は、嬉しいと思いつつも、妻のいやに静かな調子が気になった。
「本当は、もう随分前にあなたにお願いしたかったことですが」
私は、畏れを感じた。こんな日が来ることは予感はしていたが。
「何だろう?」
「私と離婚していただけますか?」
「えっ、どうして?」
口に出して言われてみれば、私も驚かざるを得ない。
「長い間、私にはあなたが必要だったけど、あなたには私が必要なかったわね」
私は、妻がこう言い出すのは意外ではない。ずっと思い当たることがあったからだ。
「君の言うことはわかる。しかし、現在の私は以前の私とは違うよ。君の大切さが、今ではとてもよくわかるようになっている」
「あなたに、私が必要になったの?」
妻の表情に変化はない。相変わらず冷たいほど静かなままだ。以前の妻はこうではなかった。何かがすっかり変わってしまったことを感じる。
「そうだ。私には君が必要だ。君の回復も助けたい」
「有難う。でも、ごめんなさい。私にはもうあなたが必要ないの」
必要ないとはっきり言われ、私は妻のつよさに改めて驚いた。そうだ、彼女はもともとつよい人間だった。私が躊躇しているのを見て、彼女が重ねて言った。
「私の鏡台の一番下の引き出しの奥に、一年前に私の弁護士に頼んでおいた離婚届けが用意してあります。私の判は押してあるので、あなたの判もお願いします。そして、面倒ですみませんが、それを弁護士に今日にでも郵送していただけますか? その後の面倒なことは、弁護士がすべてやりますので」
私がここで妻に泣きついても意味がないことは、私にもわかっている。泣きついたところで、彼女は自分の決心を変えない。私も、泣きついてまで夫婦関係を維持したいとは思わない。
「君の気持ちはわかったよ。すまなかった。元を正せば、すべてが私の責任だという思いが私にはある。離婚届けには判を押すよ」
妻は、一言だけ言った。
「ありがとう」
「但し、今は離婚するけど、私に君が必要だという気持ちに嘘はない。君がもう一度私を必要になる日を待ちたいが、それでもいいかな?」
「おまかせします」
そして、私が妻の弁護士に離婚届を郵送した次の日に、妻の一番下の弟が日本から家にやってきた。私はこの弟と日本で一度だけ会ったことがあり、覚えていた。彼女に頼まれ、彼女を日本に連れて帰るという。妻の実家は九州の鹿児島で、両親は早く亡くなったが親類は多いため、その内の一人の親類の家に世話になるという。そして、彼女は私にはもう何も言わなかったが、弟の話しでは、しばらくそこに世話になった後、海外の精神医療専門の有名な病院に入院することが既に決まっているとのことだった。彼女の体力は基本的に回復したが、後遺症には悩まされており、精神のバランスを取るためにも入院による長期療養が必要とのことだった。

私は、私なりにクール教団について少し調べておく必要があると感じ、ニューヨーク警察のあの時の担当者を訪ねた。あれ以来警察からは何の連絡もなかったため、保護観察の件がどうなったのかも確認しておく必要があった。
あの時の担当者はまだ同じ部署にいた。そして、私が彼に事情を説明すると、心配そうな顔で言った。
「奥さんの保護観察については、まだ解けていません。その点は奥さんにも連絡してありますから、仮に離婚されて日本に戻る場合にも、奥さんには住所をわれわれに届け出る必要があります。届出がない限り、奥さんは出国できません。入国管理事務所で足止めされますから。われわれからも日本の警察に保護観察の継続を依頼します。但し、単なる情報提供の依頼になりますが」
「クール教団は、その後どうなりましたか?」
「解散したようです。ちょうど先週ですが、教団は警察に解散届けを出しました。確認のため現地調査しましたが、敷地に立てられていた建物はすべて撤去されて新しいビルになっており、関係者は誰もそこに住んでいませんでした」
「令子は、現在も教団と関係があるのでしょうか?」
「われわれも知りたいところです。クール教団は典型的なカルトですから、われわれは解散についても信用していません。よくある手です。どこかに移動したというのが警察の見方です。奥さんはあなたと離婚して日本に戻るとのことですから、移動の時期も一致していますね。現在も関係があると考えておいた方がよいと思います。用心のためですが」
たしかに、私も、籍の上では赤の他人に戻るとはいえ、令子のことはずっと心配のため、クール教団との関係はアタマに入れておくべきだと思った。

そして、実際、真相は今でも不明だが、警察による予想は当っていたのかも知れない。令子は、弟が家にやってきた次の日に、弟に抱えられるようにして家を出た。私は、心配だったため、その1週間後に再び警察に電話して彼女が届け出たという日本の鹿児島の住所を聞き出した。そして、その住所がある鹿児島市役所に電話してみたが、その住所にある家は彼女の親類ではなかった。当然、市役所に令子の住民登録もされていなかった。その住所から電話番号も調べて直接その家に電話してみたが、電話に出た相手は「知りません。間違いです」とだけ答えた。令子と弟は、一体どこに行ってしまったのか? 弟はクール教団の者だったのか? 彼女は、一体、何を考えていたのか?
令子の行方不明はその後20年続いた。そして、なぜかイスタンブールで、ふたたび思いがけない姿で発見された。何と、彼女は植物人間として発見され、ほとんどミイラ同然だった。つまり、生きているとは言えなかった。
そして、何という縁だったのか。令子は、フジイ博士の後輩にあたる斉藤博士を通じて、私のもとに返還された。斉藤博士によれば、博士にも何か秘密がありそうだったが、イスタンブールで令子を発見したのは斉藤博士であり、植物人間として眠り続ける彼女の枕元には一通の手紙があり、そこには令子に異変があった場合の連絡先として私の名前が記入されていたそうだ。私もその手紙を読んだが、たしかにそれは彼女の筆跡だった。その点については、離婚したとはいえ、私には彼女は私の妻のままであり、彼女が最後に当てにしていた人間が私であることを知り、嬉しく、涙が出た。
しかし、斉藤博士の話しによれば、2040年から10年間、令子はイスタンブールで電脳サイト『イスタンブール』というものを経営し、アマという名前を名乗り、そこで王女として君臨していたという。フジイ博士によれば、斉藤博士は電脳世界研究の第一人者でもあるため、その証言は信じられるとのことだった。しかし、私には、一体どういうことなのか、今でも信じられない話しだ。令子が、仮想世界の王女として振舞っていたとは。彼女には、そんな私も知らない人格が隠されていたのか。
今では、令子は、私の家の二階でお手伝いさんの世話で静かに眠り続けている。しかし、時々、わずかに苦悶の表情を浮かべているように見え、私にはとても苦しげに見える。彼女は今でも苦しんでいると、私は確信している。もちろん、一向に目を覚ます気配はない。彼女が帰宅してから、もう2年が経った。私が彼女の脳に何度アクセスしても、私の技術が未熟なせいもあるが、エラーの返事が繰り返されるばかりでどんな手がかりも得られない。フジイ博士や斉藤博士に頼んでも同じ結果だった。
私は、彼女の寝顔を見ながら、思う。令子の魂は、死に行く者として、どこかの宇宙を彷徨ったままであるに違いない。どこかに安らかに落ち着ける場所を、今でも探しているのだろう。
一体、こんな事態を迎えることになるとは。私には、きつねにつつまれたような状態が続いている。
令子もこんな事になってしまい、私は、自分の人生は最後まで呪われて終るものと観念している。私が私的に支援していたメタトロン軍のエダの魂も、令子と同様に行方不明になってしまった。エダの固い決心が原因とはいえ、行方不明であることは痛ましい。メカトロン軍による数々の非道もすべてエダの責任に転嫁されている。オスマンたちの首脳部に体よく利用され、捨てられた形だ。もしかしたら、令子の電脳サイト『イスタンブール』も、クール教団に利用され、最後に捨てられたのではなかったか。

しかし、人生は最後の最後までわからないと言うべきか。こんな私にも最後のチャンスが訪れようとしていた。これもフジイ博士の紹介で知り合ったロボット会社の原アレノの勧めでハル4世を育てて以来、はじめて私の人生の風向きが変わった。私はフジイ博士がすすめる『ヒト宇宙化計画』の中の『宇宙家族の為のグランドデザイン』をまかされることになり、ハル4世と共に、令子とエダの魂の探索を兼ね、太陽系圏外の惑星探査の旅に出ることになったのだ。
できるなら、私の人生もこのままでは終って欲しくない。この痛切な思いがこの旅を決心させることになった。令子はアーティストでもあったから意志はつよかった。アーティストとは誰にも頼らず、自分の道を独力で切り開く力をもつ者に対する名称だ。 エダも、稀に見る優秀な戦士として、エダの意志がどれほどつよかったかは私が一番よく知っていた。だから、私は、現在も彼女たちの魂は生きており、私が探しに行くならどこかで会えるのではないかという気がする。そうだ。令子やエダが、これくらいのことで世界から消えてしまうはずがない。
太陽系圏外への旅。私の青春は、宇宙で始まり、私の最後も、宇宙で終る。こんな人生も素晴らしいではないか。たしかに、家族に飢えた魂こそがより『大きな家族』を求めるのだ。それは真理だ。現在の私はしみじみとそう思う。私にはこの地上では幸福な家族に恵まれなかったが、しかし「大家族に到る道」が残されている。