第9話・第10話

第9話『宇宙の花計画~破壊される月』

1 魔術

エリカが、ウガンダからの帰りに、朝一番の飛行機でニューヨークにやってきた。新・国連のメタトロン軍に対する『ヒト宇宙化計画』の戦略会議に彼女も出席し、発言するためだ。僕は彼女をジョン・F・ケネディ空港に迎えに行った。彼女は世界中で若い女を対象にした恋愛相談塾もやっていて、そのテーマで相談したいこともあると言う。僕たちはマンハッタンのイースト川沿いの行きつけの喫茶店に入った。
ウガンダ政府高官との商談は、うまくまとまったとのこと。「これでアフリカに進出できる!」とエリカはこの件では喜んでいる。僕も嬉しい。スペースチューブ・ロボットスーツ・ネットロボットの三点セットをウガンダ政府が大量に買い上げてくれることは大きな成果だ。彼女と僕は、以前から、無償でもいいのでスペースチューブをアフリカの子供たちに普及させたいという願いをもっていた。それは、まだまだ遊びが足りないアフリカの子供たちがスペースチューブに入ると、狂喜して楽しんでくれるからだ。それが、ビジネスとして、公式の入り口をつくれることになるのだ。子供たちの笑顔ほど僕たちの心を癒してくれるものはない。僕やエリカも仕事上ストレスが多いから、子供たちの笑顔こそ最高のプレゼントだ。子供たちの笑顔を見るたびに元気になり、僕たちは息を吹き返すことができる。
しかし、当面の懸案は、エダとメタトロン軍の最新の動向だ。
いつもは楽天家で明るいエリカも、今日ばかりは深刻な顔をしている。エダのことが気になるからだ。エリカが新・国連の戦略会議に参加するのも今日がはじめてだった。
「私もあなたも、ほんとうに大丈夫なのね?」
「君はエダに侵入されていない。だから僕も大丈夫。心配なの?」
「それは心配よ。だって、事件の舞台は私の脳なのよ。それなのに、自分では判断できない。今度ばかりは何もわからない。あなたにいくら言われても心配。私が侵入されたら、あなたにも危険がせまる。もどかしい限り。ジリジリするわ」
気がつよく姉御肌のエリカのことだ。その気持ちは僕にもよくわかる。
「メグミの時は問題なかった?」
「それは問題ない。メグミさんが私の夢に出てくる時には、いつも安心感があった。メグミさんは暖かいのよ。あまり度々なので不思議に思った時もあったけど、いまでは感謝している。あなたと私の愛はメグミさんからの贈り物だったから。でも、エダは不安なの」
「どう違うの?」
「まるで違う。正反対。エダが夢の中に出てくると、寒気がする。エダのからだは冷たい。理由はわからないけど、ものすごく苛立つの。エダが私の夢に現れると、あなたの心も揺れることが私にはわかる。だから余計なのよ。エダはあなたを傷つける存在だわ」
「僕は大丈夫だよ」
「ほんとうにそうならいいけど」
エリカの不安そうな顔は変わらない。僕もそれ以上エリカを説得できない
「それより、エダの『宇宙の花計画』の全貌が見当ついたよ。君の脳は安全だったけど、一つだけ、小さな青い刻印を見つけたことは話したよね? そのチップがほぼ解読できた。やはり暗号で書かれたエダからのメッセージだった。そこに計画が書きこまれていた」
「でも変ね。なぜ、わざわざ私たちに知らせるの?」
「誘導作戦だ」
「誘導作戦? どんな?」
「間違いないよ。僕たちの対応を君の脳から読み取り、エックハルト軍の体制を判断し、それも作戦に組み込むつもりだ。そのために君の脳に微小なチップを埋め込んだ」
「知能犯なのね」
「その通り。エダはアタマがいいよ。とにかく、会議の前に君と相談しておきたい。君にも重要な役をお願いすることになるからね」
「覚悟してるわ。何でもするつもりよ」
「いまから話すことは、まだ僕の個人的な解釈の段階だ。エダと直接話したのは一度しかないしね。だから僕の解釈には修正も必要になると思う。フジイ博士には報告したけどね」
「わかった。はじめてくれる? エダがどんな女かをもっと正確に知りたいわ」
僕がエダと最初に遭遇したのは、4年前のベイルート近郊での地上戦だった。
エックハルト軍の地上部隊の一部が苦戦に陥り、僕の部隊も急ぎ応援するように作戦本部から要請されたのだ。すぐに出動したが、間に合わなかった。戦闘はすでに終了に近く、2000人の部隊は全滅しかけていた。その惨状はすごかった。兵士たちのからだはむろん、内臓や脳まで引き出されて完膚なきまでに破壊されている。どうしてここまでやる必要があるのか? 人間にここまでひどいやり方ができるのか? 僕は心の底から驚いた。
その時、殺戮を先頭で指揮していた一人の女の目とかち合った。それがエダだった。その表情の狂人めいた氷のような冷たい印象と、その手口の残忍さに、思わずゾッとした。その殺し方を見れば、「それが人間に対する扱い方か?」と誰もが疑う。いくら残忍非道といっても、限度というものがある。しかし、エダのやり方はその限度を超えていた。動物の解体作業よりもっとひどい。
単に残忍というより、殺した後もなお、人体はモノとして扱われ、遊ばれていた。
腕や足もバラバラに切断され、まるでアート作品のように組み合わされ、
動物の形や十字架の形をとって、積み上げられていた。
ナチやポルポトでさえこんな遊び方はしなかった。
そこには途方もない恨みが込められていることを感じた。
それ以来、僕はエダに遭遇することが増えた。彼女がメタトロン軍の大佐であり、重要な戦闘のすべてを指揮していることを知った。フジイ博士からは、最初はサイード・S博士からエックハルト軍への参加を誘われ、それを蹴ってメタトロン軍に参加した謎の人物であると聞かされた。パレスチナ人で、父も母も兄弟もイスラエル軍に目の前で殺され、彼女も殺されたかけたが自分だけ奇跡的に生き延びたという複雑な生い立ちだ。この時以来、僕もエダを意識したし、エダも僕を意識したようだ。僕の行動は彼女にマークされ、情報戦として意図的に追跡されるようになった。僕の方でも彼女の動向を探るため、彼女の脳に侵入する回路を常にオンにしていた。
黙って僕の話しを聞いていたエリカが、顔をあげて僕の顔を見た。信じられないという目をしている。僕は話しを続けた。
「まず、この間も東京で説明したけど、エダは、君の脳に侵入し、僕たちの愛の経験を盗もうとしている」
「目的は? まさか、彼女も私たちのような恋愛をしたいの?」
「それは違う。エダの目的は、君の脳を完璧に乗っ取ること。それを二つの目的に使用すること」
「二つの目的?」
エリカには今日、全部説明しておく必要がある。事態の深刻さを理解してもらい、エリカにも力を発揮してもらわなければならない。エリカは、やる気になればすごい力を発揮するからだ。エリカに説明した後は、ノアとアスカも呼んで説明する必要がある。ノアとアスカも忙しくなるだろう。
「一つは、君の脳を通して僕の脳に侵入すること。エダにはその通路しかない。僕に直接侵入することはできない。だから、君の姿を取り、僕の夢の中に現れて僕を撹乱したい。そして、隙をみて、僕を殺害したい」
もちろん、通常のケースで誰かが偽装して夢の中に登場しても、僕はすぐに見破れる。ただ、エダがエリカの姿になって現れたら、難しい。僕が元気な時はまだよくても、疲労している時間などが狙われたら危険だ。
「なぜ殺害の必要まであるの?」
「僕の存在が彼女の作戦に邪魔だから。彼女は大量のロボット兵士とネットロボットの動員を予定している。僕はそんな動きは許さない。その動きが事前にわかれば、僕たちの部隊にはそれを阻止できる力がある。だから、エダは僕を殺害したい」
「あなたが弱っている時にエダが動くのね?」
「そうだ。エダはその時を探している」
「もう一つの目的は?」
「もう一つは、盗んだ愛の技術をエダたちのロボットに搭載するため。彼女は、アジェイが開発したロボットの精度を超え、もっと魔術的なロボットを開発することを考えている」
「魔術的?」
エリカは魔術的という言葉につよく反応した。
「そう。愛の魔術だ」
「愛の魔術? 何だかステキね」
「アジェイのロボットは強制的に相手の脳を乗っ取ることしかできない。乱暴な方法だ。その場合には脳に必ず傷が残る。傷を調べれば誰のせいかがわかってしまう。だから、エダは愛の魔術を使いたい。それがうまくいけば、敵は乗っ取られることを自発的に選択してしまう。敵の気をゆるめるために、エダは可能な限りのご褒美も用意する。相手は、愛されたくて自分を犠牲に差し出す。なぜそんなことをするのか本人も自覚できないまま、相手に協力してしまう。こういう場合には脳は傷つかない。自分の意志だからだ。だから、誰のせいかはわからない」
「それは、微妙な話しね」
エリカが、自分のことを言われているような困った顔をしている。
「うん。すごく微妙な話しだ」
僕も、自分たちのことを言っているような気がしてくる。エリカも同じように感じている。
「私たちの関係でも、私があなたにそれと同じ魔術をかけたのかも知れない。或いは、私があなたにその魔術をかけられたのかも知れない」
「たぶん、両方だね」
「でも、それが愛。そういう魔術が悪いとは言えない」
「その通りだね」
「愛には計算と自己犠牲がつきもの。つまり、愛する人の心を正しく見抜いて、そして愛する人の言いなりになること。メグミさんのことも、私だって思い当たることがある。私がメグミさんの侵入を受け入れたのは、彼女に対する善意だけじゃない。彼女を受け入れることであなたが本当に私のものになると感じたから。打算ね。実際、その通りになった。ほんとうに嬉しかった。あなたもそのことを知っているわ」
「うん。僕もよくわかってるよ。あの時、君だけがメグミの悪口を言わなかった。その理由を僕はあの時は知らなかった。でも、それで、僕は救われた」
「それも、メグミさんが私の夢の中に来てほんとうの事を話してくれたから。私も彼女の話しを聞いて、なぜ二人の男を同時に愛することになったのか、よくわかったわ。それは彼女の選択ではなかった。受け入れることを愛の運命と感じた。そして、彼女は二人の男を愛するようになっても、いつまでもあなたが一番大切だった。でも、それはいくらあなたに説明してもわかってもらえない。でも、どんなことをしても、彼女はあなたにわかって欲しかった。だから、彼女は、死ぬことで、誰かの口からそれを伝えようとした。死ねば、あなたが悲しんでくれること、あなたが変わることがわかっていたから。それで、あなたの子供を妊娠した事を確信した時に、死の決心がついた。同時に、彼女は、あなたの経歴を調べたそうよ。そこで見つけたのが、高校生の時に恋人だった私。死んだ後、彼女が私の夢に現れた。彼女が私を選んだのよ」
「すごい恋愛だね。女のやることはすごいよ」
「そうね。私もあんな体験ははじめて」
「あの当時、僕は子供だったからそんな話しはまったく予想もできない。君との再会は偶然だと思っていたけど、偶然ではなかった」
「メグミさんが私を動かした。私は彼女の愛をあなたに伝える使者だったし、それに成功すれば私とあなたの愛が復活することが私にはわかっていた。あなたは、彼女を愛するがゆえにひどい女性不信に陥っていた。でも、いきなり二人の女に愛されることになった。彼女は既に死んでいる。私は生きている。それであなたは復活したわ」
「今でも信じられない話しだよ」
「いずれにしても、わかったわ。エダが、私に中学生の時の友だちの夢を送ったのが、最初のご褒美ね?」
「その通り」
「そして、今度は、私を乗っ取った後、エダが私の姿になって、あなたの前に登場しようというわけね?」
「そうだ。君が出てきて、僕が君を疑わない場合は、僕はエダの侵入を許してしまう。愛する者を拒む者はこの世に存在しないからね」
「でも、あなたなら見破れるはず。それはニセモノよ」
「僕もそう思う。でも、君が完璧にエダを受け入れてしまった場合は、僕だって君とエダの違いを見破るのが難しい。君がいつもと少し違う振る舞いをして僕が変だと感じたとしても、僕が疲れている時など、勘違いしないとは限らない。とにかく、それで、エダが僕の心を改造出来なくても、少なくともエダは僕への侵入に成功したことになる。この経験は新しい技術になる。エダは魔術的ロボットの開発をさらに進めることができる」
「たしかに、私も油断したのよ。中学生の時の友だちの夢がエダの策略とは思いもしなかった」
「エダは巧妙だからね」
「とにかく、エダは洗脳レースで、あなたより一歩先に進みたいということね」
「そういうことだ。エダは、愛の魔術を獲得したロボットを大量に使い『宇宙の花計画』を実行に移す計画だ。僕たちが洗脳レースに遅れを取れば、僕たちはエダの計画を未然に防げない」
エリカが僕に聞いた。
「あなたの方ではエダの脳に侵入できてるの?」
「基本的にできてる。回路はつねにONで、アクティブになってるよ」
「それで?」
「エダが目立った動きや激しい感情を表に出せば、僕がキャッチする。だから、彼女は僕を警戒し、可能な限り静かにしているわけだ」
「わかったわ」

2 新・月移住計画

さて、肝心のエダの作戦の中身。ここからが彼女に話すべき本題だ。
「僕は君に新・国連の新・月移住計画については話したよね。知ってる?」
「この計画でアレノの会社が販売したロボットスーツが大量に使用されたわけだから、もちろん覚えているわ。核攻撃で人口が半減した月住民に対して2000万人の地球住民を世界中から移住させ、月居住の次のステップにしようという計画。もうそろそろ終了する頃だと聞いたけど」
「うん。先月の末に完全に終了したよ」
「早かったわね」
「この計画は、これまでの月居住の停滞を破るための革新的なものだった。これまで、月には身体改造されたマッチョな人間しか住むことができなかった。6分の1の重力下では誰もが身体が辛くなり、生活が困難になるからね」
「月に人間が住む前は、重力が地球の6分の1になるから生活は楽になるはずと見込まれていた。老人たちも歩きやすい。でも、実際は反対だったわね」
「地球の重力下に生まれた身体は、6分の1の重力に慣れることはない。それは早い段階で証明されていた」
「それで慌てて人工重力環境が月につくられたけど、それもムダだったわけね」
「そうだったね。人工重力環境は短期滞在には有効だったけど、永住者には耐え難いもので、定着しなかった。それを自分では調整できなかったからね。そんな状況の時に、アレノの会社で一般用のロボットスーツがやっとのことで販売されたわけだ。このロボットスーツは、人工重力環境を個人の必要に応じてゼロ重力と1重力の間を自由に調整できる。僕たちのグループの長年の研究がアレノの会社で日の目を見たわけだ」
この点で、僕はアレノにすごく感謝している。このロボットスーツの登場で、ふつうの人間が月に住めるようになったからだ。特別の身体改造も不要になった。ということで、先月、このロボットスーツを利用し、世界の80カ国が自国民を月に送り、生き残っている100万人の月住民と共に合計2100万人で新しい人工都市を稼動させるというビッグな計画が開始された。しかし、なぜかアラブ諸国だけがこの計画から除外されていた。
「アラブ諸国がこの計画から降りてしまったのは、なぜ?」
「新・国連でも激しい議論になったよ」
「どんな?」
「あの時、まず最初にアメリカが、イラン・シリアなどの一部のアラブ諸国を参加させたくないと言い出した。彼らが参加するならアメリカは参加しないと」
「その理由は?」
「彼らが月で核戦争を計画しているという言いがかりをつけた」
「本当だったの?」
「もちろん、いつもの外交戦略だ。宇宙核戦争の準備を完了させたのはアメリカが最初だからね。それに対して、イラン・シリアなどの一部の核保有国もいつでも核戦争に応じる用意があると公言していた」
「それをアメリカにまた利用されたのね」
「その内に、他のアラブ諸国以外の各国も、条件づきでなければアラブ諸国を新・月移住計画に参加させないと要求しはじめた。それで、反発したアラブ諸国が結局ボイコットすることになった。しかし、ことの真相は、裏でメタトロン軍のオスマンが仕掛けていた。各国にイラン・シリアなどの危険性を必要以上に煽り、デマの情報を信じさせ、故意に仕向けた結果だ」
「オスマンはアラブ諸国を参加させたくなかったのね」
「そうだ。オスマンにはその理由があった」
「それがメタトロン軍の作戦ね」
「その通り。『宇宙の花計画』は新・国連の新・月移住計画を標的にしている」
「確かなの?」
「僕の読みではね」
「先月新・月移住計画が開始されたということは、もう危険が迫っているということね」
「その通りだ」
「いつメタトロン軍が動くかも、あなたは掴んでいるの?」
「それはまだわからない。だから、今日、至急の会議が召集されたわけだ」
「『宇宙の花計画』って、具体的には?」
「アラブ諸国の参加を中止させた上で、メタトロン軍が月の新しい人工都市に紛争を仕掛ける。テロリストのように外部から攻撃するのではない。月住民の間に争いを起こし、内部から暴動を引き起こす。それを煽り、お互いを憎悪の民と化し、退却できない窮地にまで追い込む」
「アラブ諸国の住民が月に行かないなら、大きな対立の種がない。そんな暴動が起きるとは思えない」
「大きな種は不要だ。人間同士の対立は、明確でありさえすれば、小さい方がいい。エダは、そう考えている。人間の間の小さな対立を利用して、ロボット同士の大きな対立を引き起こし、それを巧みに利用する作戦だ」
「地球の人間のやり方には縛られないということ?」
「そう。ロボットを使って人間の間に憎悪が憎悪を呼ぶ連鎖構造を演出し、最終的には、メタトロン軍が核戦争を仕掛け、各国政府も核戦争で対抗さぜるを得ない状況にもっていく。『宇宙の花計画』とは2100万人を全滅させる作戦だ」
「恐ろしいことを。そんなバカなことが出来るはずがないけど」
エリカの顔がゆがむ。無理もない。僕の顔もゆがまざるを得ない。こんな計画が実行されたら空前の一大事だ。前回の月への核攻撃の比ではない。もちろん、これはエダの作戦に対する僕の読みが正しい場合だが。
僕は続けた。
「エダたちの作戦は頭脳的だよ。オスマンは建築にも手を出している。彼の国が開発したムーンハウスに住めば、ロボットスーツの効果を合わせ、月居住がさらに快適なものになる」
「ムーンハウス? はじめて聞いたわ。生活にどう役立つの?」
「ロボットスーツと同じ機能をもっていて、ゼロ重力と一重力の間を自由に調節できる。ムーンハウスに住めば、家の中でもロボットスーツを着るという煩わしさから解放される。いくらロボットスーツが進化して着用時の違和感が減少したといっても、着用していることに変わりはないからね。これを脱げるなら、家の中での以前の生活が取り戻せる。お風呂にも裸で入れる。まさに、以前と同じように、人ひどは家でくつろげる」
「生活の必需品ね」
「僕もムーンハウスが優れていることは認めざるを得ない。これで、月に住む人間に、地球より劣った環境に来たという劣等感ではなく、進化の幻想を与えることができる。オスマンは、このハウスを利用し、販売を制限し、対立を起こし易い一方の国の住民にのみ販売し、もう一方の国の住民には難癖をつけて売らない。こうして、二つの国の住民の間に争奪戦を引き起こす」
「でも、その程度なら暴動にはならないわ」
「だから、エダの作戦がここから動く。たしかに、それだけでは各国住民の間に起きる小さな対立に過ぎない。しかしエダには、この対立の構造さえ確認できればそれで充分」
「どういうこと?」
「現時点での、各国間の絆はどんなものか? ちょっとした紛争でこじれてしまう国同士はどこか? A国とB国は? C国とD国は? エダが確認したいのはそれだけ。この関係を明確にした上で、メタトロン軍が動く」
「どうやって?」
「その作戦は、ムーンハウスの争奪戦が起きた順番に実行される。A国の住民とB国の住民がムーンハウスが理由でやり合っている時に、メタトロン軍のロボット兵士群が、A国のロボット兵士1000体を洗脳し、B国の国民1万人を自爆テロで殺す。同時に、B国のロボット兵士1000体を洗脳し、A国の国民1万人を自爆テロで殺す。メタトロン軍による洗脳の証拠は一切残さない。ロボット兵士が自発的に起こした、A国とB国の相互のテロ戦争にしか見えない。昔のルワンダのツチ族とフツ族のように、憎悪が憎悪を呼ぶ連鎖反応で、A国とB国の間で大量殺害を行わせる。そして、そのピークに、メタトロン軍のロボット兵士が各国首脳の脳に侵入し、核のボタンを押させる。怒り狂い、錯乱状態に入った国民と政府が、<守るべき地球>という感覚を持たないがゆえに、平気で核戦争にのめり込む」
「想像できないわ。あり得ない」
「でも、可能性としてはあるよね」
「可能性はね」
「これが成功すれば、同様のテロ戦争を他国にも拡大できる。それで、新・月移住計画を崩壊させ、2100万人全てを死亡させる、というシナリオだ」
「地球では起こせない核戦争を月では起こせる、という読みね。地球を核の荒廃に導くことはできないけど、月ならいいわけね。でも、それがエダたちの仕業とわかれば?」
「一切わからない。原因は各国のロボット兵士による集団暴走。ロボット兵士が洗脳されたという証拠は残らない。そして、エダの死により、原因は一切の闇に葬られる」
「でも、この計画を知った私たちは公にできるけど」
「公にしてもほとんど意味がない。月に対するテロ計画の情報は、新・国連に毎月何十件も報告されている。事前に公に出来ても、それと同じと取られるだけ。警戒することはいくらでも出来る。でも、それだけでは僕たちが具体的にいつ、どう動けばいいのかわからない」
僕は次のように考えている。

アジェイのロボットなら問題ない。
しかしエダのロボットには、現在の段階では僕たちも対応できない。
どのロボットが洗脳され、どこで、どう動くのか? それがわからないからだ。
「エダの心が読めない限り、この計画は防げないということね?」
「そういうこと。そして、実行されてしまっても、エダの犯行だという証拠を世界に提出できない。各国のロボット兵士が集団暴走したという現実だけが残される」
「どうすればいいの?」
「どんなに困難でも、エダの心を読むしかない」
「エダの作戦が成功すれば、2100万人が死亡する。月も、今度こそ壊滅的被害を受ける」
「地球に予想される被害は?」
「前回だけで、地球にも大きな影響が出た。今回はその比ではないだろう。月で100個の核が爆発すると、月の大きさが半減すると予測されている。この影響を地球はまともに受ける。地球環境の破壊どころではない。地球の軌道自体が変更を受けるからだ。地球が現在の軌道を離れたら、どうなるのか? 太陽系の外に出て行く地球? 誰もそんな姿を想像できない。逆に太陽の側に吸い寄せられた場合には、地球は太陽の熱に包まれ、すぐに蒸発する運命だ。地球には大規模な地殻変動と大洪水も起きる。それは、現在のように震度2程度の微震が続く状態とは比較にならない。もっと大規模な災害をひき起こすはずだ。月との関係に変質をきたした人間は、生理的にも、精神的にも、さらに不安定な存在になる。経験したことがない大混乱に見舞われる」
「でも、それはアラブ国家の住民が受ける被害も同じよね?」
「だから、エダたちは別の仕掛けも用意した」
「別の仕掛け?」
「巧妙だよ。地上でも、メタトロン軍がアラブ諸国に対して被害を最小限に食い止める。オスマンは、月居住用のムーンハウスだけではなく、月の引力減少分を人工的に補う地球用の重力ハウスも同時に開発したんだ。オスマンは、ここでも差別化し、重力ハウスをアラブ諸国の家庭にのみ流通させる。その他には売らない。アラブ諸国以外の各国が重力ハウスの開発を急いでも、すぐには調達できない。しばらくの間は、地上でも月と同様の争奪戦が起きる」
「たしかに重力ハウスも生活の必需品になるわね」
「重力ハウスに住めるか、住めないか。この差が、人びとの間に大きな格差を生み出すことになる」
「たしかに、格差が人間社会に争いを起こす原因だわ」
「ナチの優生学にとりつかれたアジェイの存在も大きい。彼は大衆誘導のプロだからね。演説もうまい」
「ゲッペルスの再来と言われているそうね」
「メタトロン軍は、地上では月とは異なる作戦を展開する。混乱に乗じ、アラブ諸国以外の政治的要人に対するロボット兵士によるテロを実行し、彼らを殺す。同時に、ここからがエダたちの最大の見せ場で、アラブ諸国以外のすべての人間に対する洗脳を開始する。それで、アラブ諸国による新しい世界統治を実現するつもりだ」
「そんなことがどうしてできるの?」
「アラブ諸国以外に対し、重力ハウスの争奪戦を仕掛けて各国の調和を乱す。一方で、イスラエルとパレスチナには特別の優遇措置を提案する。オスマンは、ムーンハウス・重力ハウスと共に、空中都市も開発できる。この空中都市を、史上最大規模ものにして、イスラエルとパレスチナに提供する。要するに、両国の人間に新しい住居を与え、領土を巡る闘争を集結させる。イスラエルとパレスチナが和解すれば、アラブ諸国には一挙に融和ムードが訪れる。そして、国家に所属しないことで欧米諸国と戦い勝利を収めたメタトロン軍が、めざすべき新体制のモデルになる。アラブ諸国が一大連合を形成し、国家の力を制限し、それぞれの新・メタトロン軍をコアにするなら、実質的に国家なき統治に近づく」
「でも、オスマンの野心は新しいアラブ王国の建設よね?」
「それはエダにより却下される。エダは、オスマンも、アジェイも、殺すつもりだ」
「オスマンが見捨てられる? 国家にこだわるオスマンと、国家なんてどうでもいいエダの差が出るのね」
「オスマンはエダには歯車の一つに過ぎないからね。そして、最後に、エダも死にエダの部下たちにより国家なき統治が実現された後、アラブ諸国も宇宙に乗り出す。はじめは火星に。次に新しく発見された惑星に。この間にも、アラブ諸国では、重力ハウスと空中都市を拡張した大規模な人工都市による環境整備を行い、世界の中でのアラブ諸国の優位を確立してしまう。アラブ民族だけが、地球は汚染されたという終末意識から免れることができる」
「大きなポイントね」
「そう。アラブ民族以外は、地球に絶望し、終末意識に苛まれ、帰るべき故郷という意識を喪失する。帰るべき故郷を喪失した民族は、弱体化する。これは歴史の必然だ。彼らは、地球上を、傷心のまま彷徨いはじめる」
「ユダヤの民と同じ?」
「そういうことになるね」
「わかってきたわ。これはエダによる世界史への復讐なのね?」
「そうだと思う。エダはパレスチナ人だけど、さまよえるユダヤの民には共感していたからね。エダがもっとも憎むのは、イスラエルとパレスチナの反目の原因をつくった大国のエゴだ。なぜ欧米が世界の覇者になったのか。その歴史自体を認めたくないのだ。そこにはサイード・S博士の教えも影響していたと思う。そして、エダの筋書き通りで進むなら、火星や他の惑星でも、アラブ民族こそが優れた新文明を築ける。他の民族は、国家解体の経験を経ていないため、宇宙でも同じ過ちを犯し続けるだけだから」
「残忍だけど、周到に考えられた計画なのね。私はますますエダが怖くなる」
「たしかに。この計画はよく考えられている。エダらしいというわけだ」
「わかったわ。これがエダの宇宙政策。『宇宙の花計画』の花とは、月で爆発する核のことだったのね」
僕とエリカは、喫茶店を出た。新・国連の戦略会議はハードな会議になるはずだ。フジイ博士と共に、ふだんはめったにお目にかからないサイード・S博士も顔を見せ、世界中から重要メンバーたちが参加することになっている。

第10話『エリカ攻撃と、イカイとエダの情報戦争』

1 メタトロン軍、動く

僕たちの準備は遅かった。事態が一挙に動いたのだ。
喫茶店を出た途端、僕は『ヒト宇宙化計画』の本部から緊急事態を知らせるメッセージを受け取った。何と、僕がエリカにエダの計画について喋っている間に、実行された。エダには僕たちの行動が筒抜けになっていた。
ただ、攻撃されたのは月ではなく、これも最近移住が終了したばかりの地球人による火星居住地域だった。僕がエレナと出会って以来、火星には新しく少数の地球人が送られ、新しい火星居住地域が建設されて、元・地球人の火星人との間で試験的な合体プログラムが開始されていた。この火星居住地域の規模は10万人。新・月移住計画に比べればはるかに小規模だが、『ヒト宇宙化計画』にとっては非常に重要だった。この火星居住地域が、核攻撃により攻撃された。地球人の半数が死亡という報告だ。犯行声明は出ていない。犯人は不明。しかし、僕にはわかる。この新たな火星計画は極秘で進められていた。火星人でさえ、エレナとごく一部の政府関係者以外、誰も知らない。地球人も、直接の関係者以外は誰も知らない。だから、エダの犯行に違いない。エダは、何もかもお見通しであることを僕たちに知らしめるために、まず火星居住地域を攻撃したのだ。その次が月というわけだ。
このニュースは、フジイ博士が報道許可を出した後、世界中のメディアにより一斉に流され始めた。世界中で大きなパニックが起きたのは言うまでもない。

臨時ニュース。
 2043年9月12日。地球のNY時間の午前8時。火星で前代未聞の大惨事が発生しました。新設された火星居住地域が何者かの核攻撃をうけ、住民5万人が死亡。現在、生き残った5万人は地球への帰還船に乗り込んでいます。原因は、地球住民の中に紛れ込んでいた中東過激派の自爆テロと推定されています。詳細は不明。分かり次第・・・

僕には、これがエダによる作戦であることがわかっていた。モリスからのメッセージには、エダの脳から行動開始のサインが検出され、メタトロン軍が動いたと報告されていたからだ。その事をフジイ博士にも伝えた。フジイ博士はこの件は極秘扱いにしたいと言い、僕はエダの居場所を至急に特定するように依頼された。僕たちがメタトロン軍の犯行であることを掴んだ事を公表すれば、世界は事前に防げなかったエックハルト軍の非を追及するし、それでは何よりも僕たちの対応がエダたちに把握しやすくなる。ここは、博士が言う通り、僕たちも知らないことにしておいた方が得策だ。
僕もすぐに行動を開始し、モリスに指令を出した。いまならエダを特定できる。エダはいま動いている最中に違いないからだ。エダはこの作戦では自分の生命を賭けたりはしていない。この事件も僕たちを探る誘導作戦に違いない。すぐにモリスから返事が来た。
「エダは、いま南米チリの首都サンティアゴにいます。傷を負っているようです。あなたが仕掛けたワナに効き目があったようです」
「有難う。僕の予想通りか。少し意外だけどね」
僕も最低限の対策として、エダが動けば、その分だけエダに僕の本心が見えなくなるように僕の脳を細工した。僕の読みでは、エダは僕の本心を知りたい。そして、僕の心を見たければ、行動を停止する必要がある。しかし、彼女の使命は行動することだ。エダが負った傷とは、二つの情動に引き裂かれたまま行動したことによる、心の涙だ。エダが決して流したことがない涙。その涙は僕だけに見える。
「予想通りだったことがですか? どんな点が意外ですか?」
モリスにもそこまでは推測できないようだ。
「僕のワナを知っていたことを、エダの方からほのめかしている。そのように、故意に僕に証拠を残した」
「故意に?」
「エダの目的は何だと思う? 火星攻撃に現在どれだけの意味があるのか?」
「火星攻撃には重大な意義が認められます。まず最初に、『ヒト宇宙化計画』の火星プロジェクトを少しでも叩いておくこと。それに成功しました。次に、これが今回の主な目的と思われますが、メタトロン軍が犯行の痕跡を残さずに任務を遂行できるかどうか、それを試すこと。それも実証されました。ただ、エダは自分の居場所を特定されない方法が今回もあったはずなのに、なぜか? 傷がひどいのか。或いは他の理由があるのか」
「知らせることで、僕に何かを考えて欲しいのだと思う」
「多分。ボクも、エダはあなたに何かを託していると思います」
「有難う。あとは自分で考えてみるよ。休んでいいよ」

いずれにしても、事態は風雲急を告げていた。会議も、予想以上に慌しいものになった。月への本格的攻撃を防ぐたに、エダを一刻も早く逮捕し、メカトロン軍の動きを止める必要があったからだ。僕はエリカに話したことを、僕の解釈であることを断った上で、もう一度会議の参加メンバーに説明した。フジイ博士は黙って聞いていた。僕がエダの居場所を掴んでいることは、フジイ博士だけに告げ、参加メンバーには話さなかった。

2 情報戦争

 『ヒト宇宙化計画』は、実行部隊のエックハルト軍の他に、世界の各国に点在する30の開発部門・研究部門・教育部門・支援部門を持っている。今日の会議には、この3つの組織のトップを含む100名程度のメンバーが参加していた。僕は、ロボットスーツとネットロボットの能力の説明からはじめ、ネットロボットが他人の脳を乗っ取る様子や、人間の不死を実現する可能性や、エダの計画について、最後に情報戦争について、その要点を報告した。
会議は、紛糾した。フジイ博士とサイード・S博士を除き、メタトロン軍がそこまで大掛かりな作戦を考え、こんなに早く攻撃してくるとは誰も予想していなかったからだ。
しかし、いくら会議が紛糾しても、結論はわかっている。誰が考えても同じだ。月への攻撃が決行される時期を把握し、『宇宙の花計画』の実行を中止させること。そのために対策を至急立て、実行すること。したがって、エダ逮捕のために、まずはエリカが重要な入り口になる。そのために、僕は、次にエリカについて、僕とエリカとエダの関係について、会議のメンバーに報告した。エリカは、この会議で、正式に僕の戦闘パートナーとして任命された。エダがエリカへの侵入を通して僕への侵入を図ろうとしていることを、僕たちの方で利用するためだ。
僕の報告の中でも、会議のメンバーに特に理解が困難だったのは、人間の不死を実現する可能性と、情報戦争についてだった。会議のメンバーは、通常の戦争や紛争については名だたる専門家だ。しかし、誰も、経験したことがないことはわからない。特に、情報戦争ほど目新しいものはないからだ。

 情報戦争とは何か。
 すでに、僕や仲間たちにとっては、
 ロボット兵士とネットロボットが動員される戦闘において勝利するためには、情報戦争に勝利する必要があることは自明のことだった。

しかし、会議参加者の多くは政治家・軍人・学者たちであり、リアルな戦争については周知していても、情報戦争の実践の経験はない。ネットロボットの使用テクニックも、世界中の若い女の子たちやアニメ少年たちにもはるかに及ばない。まったくの素人なのだ。メタトロン軍の中でも、同様の認識を持つ者として僕が強敵と感じるのは、エダとその部隊だけだ。他の部隊にはその認識が薄いため、装備も古く、僕の部隊の敵ではない。
いつも積極的に発言するドイツのケラー博士が、まず僕に質問した。ケラー博士は精神医学者として世界的に有名だ。
「まず、ネットロボットは人間を不死にする能力をもつとのお話しでしたが、君の部隊とエダの部隊もその能力をもち、不死なのですか?」
「僕たちはその技術を手に入れました」
「具体的には?」
「僕たちは、戦闘服であるロボットスーツを<心>をもつ存在として成長させています。自分の全記憶をこのロボットの<心>に貯蔵できます。このロボットの一対として働くネットロボットが貯蔵に必要な作業を行い、全記憶を管理します。万一、ロボットスーツが破壊された場合には、全記憶をネットロボットが自分の人工知能に移し保管します」
「しかし、それではネットロボットも破壊されたらおしまいでは?」
「ネットロボットを破壊することは誰にも出来ません。まず、ネットロボットの実態は<モノ>ではなく、<情報>です。そして、ネットロボットは<情報>として電脳空間に属していますが、同時に異界でも新たな<実体>として成長しています。ネットロボットは、異界に自分の固有の世界を築きつつあります。このようなネットロボットを破壊するためには、異界も破壊しなければなりません。しかしそれは誰にもできません。重力を人間が創造したり破壊したりできないのと同様で、人間には空間の構造に直接介入できる能力は与えられていません」
「つまり、ネットロボットは、理論物理学者のリサ・ランドール博士たちが唱えていた並行宇宙に半身を入れているということですね?」
「その通りです。したがって、この能力をもつ者たちは、死を迎えても、生身の身体は再生医療とサイボーグ工学による人工身体として再生できるため、全記憶をネットロボットから自分の人工身体の人工脳にコピーすることで、復活できるようになりました」
ケラー博士は、僕にも興味があるらしく、聞いてきた。
「君は、噂では、年齢不詳といわれていますが、そのためだったのですか?」
「それは博士の想像にお任せします」
「私には、君はどう見ても30代の前半にしか見えない。ほんとうの年齢は100才を超えているとか。或いは、一度死んだことがあるという噂もありますね?」
この質問には会議参加者の全員が関心があるようで、彼らも聞き耳を立てている。フジイ博士だけがその事実を知っている。
「私が一度死に、復活した人間なのかどうかは、私にもわかりません。私が異界に何度も出かけている事は事実です。しかし、そこで何があったのか。詳しい事は、エックハルト軍の機密のため、お答えできません」
「残念ですな」
「いずれにしても、はじめて地球上に、人は死なない、という可能性が実現されました。望む者は、その技術さえ獲得すれば、蘇ることが可能になったのです。この技術は、門外不出の極秘技術のはずですが、エックハルト軍の退役兵士たちを介して一般社会にも流失しています。人間の社会は経験したことがない変化に見舞われています」
「メタトロン軍も、すでに人工身体の開発に成功しているのですか?」
「成功しています。オスマンの国にその秘密工場があります。彼らも人工身体を使用し不死を手に入れています」
ケリー博士の質問はこれで終った。代わりに、今度は中国のリー博士が質問に立った。リー博士の専門は脳科学と情報工学だ。

リー博士が言った。
「情報戦争について説明してください」
僕は端的に答えた。
「戦争や殺人において、そのやり方に根本的な変化が起きました。優秀なロボットスーツとネットロボットを持たない者たちの間では、いままで通り、生身の身体に対する物理的攻撃で済み、相手の身体を破壊すればそれで終わりです。しかし、相手が優秀なロボットスーツとネットロボットを持つ場合には、それでは殺せません。身体を殺しても、人工脳から蘇ります。身体は、何度でも再生技術で再生可能です」
「すぐ蘇るのですか?」
「個人差があります。人工身体を携帯していれば、その場で蘇る者もいます。技術が未熟な者は、時間がかかります。メンテナンスを受けなければ立ち上がれない者もいます」
「情報戦争とは、具体的には?」
「僕は、いつも部下に、次のように教えています。相手をよく見ること。そして、相手がもつロボットスーツとネットロボットの能力を正確に見抜くこと。優秀な能力をもつ相手には情報戦争を仕掛けること。油断すればこっちがやられること」
「具体的にどうするのですか?」
「はじめに、ロボットスーツを攻撃します。ロボットスーツを破壊した後に、スペーストンネルを移動するネットロボットの動きを阻止しなければなりません。そのために新しい方法が必要になります。ネットロボット同士が殴り合ったり、機関銃などの武器で撃ち合うというような光景は展開されません。それは物理的身体を相手にする場合のことですから。情報に対しては別の攻撃が必要です」
「それで?」
「まず、スペーストンネル内での標的とするネットロボットの自由な移動を、スペーストンネルの分断によりストップさせます。スペーストンネルを分断することは、スペーストンネル技術が相手より上である限り、可能です」
「その次は?」
「次に、ネットロボットが存在する残されたスペーストンネルを占拠します。ネットロボットを身動きできないようにした上で、ネットロボットの<心>に侵入し、その<心>を支配し、自分の<心>として改造します。これが情報戦争における勝利の方程式です」
「支配するとは?」
「後ほどこの会議に参加しているエリカに報告してもらいますが、エリカの場合では、エダに中学生の時の友だちの記憶を送りこまれ、エリカは2分間の昏睡状態に陥りました。この昏睡状態が支配されている状態です。あと1分続いたら、エリカは改造されていた可能性がありました」
「改造の証しは?」
「エリカが、私はエダ、と思ってしまうことです。エダをそれをねらっています。改造に成功すれば、それ以後、エダはエリカを自由に扱えます。エダは直接私の脳に侵入する力はありませんが、エリカの脳を入り口に、エリカの姿を取り、私の脳に侵入することが出来ます。私も、私のネットロボットも、エリカは警戒しないからです」
「侵入しても、改造できない時はどうなりますか?」
「侵入者が逆に支配されたり、改造されたりすることがあります」
「たとえば、もし私が完全に改造された場合には、私はどうなり、どこに存在することになるのですか?」
リー博士も、自分のことが心配になるようだ。それは聞いている会議の参加者の全員が同じだったと思う。僕はさらに続けた。
「リー博士は存在しなくなります。残されるのはリー博士の身体だけです」
「死と同じで、認識もできないということですね」
「完全に改造される場合には、すでに相手のモノになっているので、そんな心配も出てきません」
「それ以外のケースは?」
「相手に改造されたことを自覚しながら生きることもあります」
「その時は、窮状を誰かに打ち明けることはできますか?」
「隙を見てできるかも知れません。しかし、相手はすぐに気づくので難しいでしょう」
「少なくとも私はもとには戻れないのですね?」
「基本的に、戻れません」
「例外もありますか?」
「あります。相手が死に、リー博士に帰る場所が保存されていた場合。つまりネットロボットが保管していた記憶内容が解体されていない場合には、帰還が可能になります」
「いずれにしても、恐ろしいことですね」
「はい、恐ろしいと思います」
僕は最後に言った。

 これが、情報戦争です。
 いかに、ネットロボットの居場所を突き止めるか。
 いかに、スペーストンネルを分断するか。そしてネットロボットを固定するか。
 いかに、その「心」に進入するか。そしてその「心」を改造するか。
 それが僕たちに求められる新しい技術です。
 陣取りと、相手の心を改造できる能力が、勝敗の決め手です。

3 死ぬこともできない

会議の後、僕はエリカと一緒にいつものホテルのロビーでフジイ博士に会った。博士は特別に心配していなかった。今後のエダによる月攻撃の脅威についても、僕とエリカが協力すれば何とかなると言って微笑した。博士の言葉にはいつも謎が含まれているが、僕にはそれが救いになる。エリカとフジイ博士がついていてくれれば、僕には何も怖いものがない。さっきの博士の言葉で一番印象に残ったのは、次の言葉だ。

エダは、死ぬこともできない。

僕の家への帰り道、僕はエリカとまた話しはじめた。今日は久しぶりにエリカが僕の家に泊まることになっている。明日の朝一番でエリカはまた東京に戻るのだ。
「フジイ博士の言葉はどういう意味だろう?」
「さぁ。わかる気もするけど」
「サイード博士も言っていたけど、エダが苦しんでいることは確かなようだ」
「あなたも苦しいの? あなたは、エダが死んだら、その姿を見たいと思う?」
「確認したいとは思う」
「エダの作戦が成功したかどうかを?」
「いや。エダの表情だ。僕たちがいる限り、作戦が成功するわけはないからね」
「エダはいまもチリに身を隠しているのかしら?」
「モリスの報告では、いまはチリ。でも、もう動きはじめているはずだよ」
「あなたは居場所を特定できるのに、逮捕できないの? なぜ? 私を気づかって本当のことを言わないだけじゃないの?」
「ほんとだよ。ウソをつきたくても君にはウソはつけない。ウソをつけば君にはわかる。それは君もよくわかっている」
「だって、何だか私もエダを好きになりそう。あなたがエダを好きになりそうなように。そしたら、私は、エダに簡単に改造されてしまうわよ。私がメグミさんを受け入れたように。自分から進んで」
「好きという気持ちとはまったく違うよ。そういうことじゃない」
「でも、あなたは自分とエダを一つコインの裏表と思っているでしょう?」
「最初は、意識していなかった。でも、途中から、『ヒト宇宙化計画』が成功するためにはエダのような存在が必要なのかも知れないと思いはじめた。それは確かだよ」
「エダの善悪論の裏返しね?」
「そうかも知れないね」
「エダの場合は、悪の限りを尽くし、悪の自壊を待つという方法。あなたの場合は、エダと対極の地点で行動することで、最後の最後でエダを転換させる。でも、世界を一身に背負ってしまったという運命では、エダもあなたも同じ。エダに死んで欲しくないのはあなたね。エダも、あなたからその気持ちを引き出したい。エダは、あなたに注視されている中で死にたいのよ」
僕も、エリカの言うことは、当っているような気がする。
僕には、フジイ博士が言う意味は正確にはわからない。でも、現在、僕とエリカが世界のここに生きていて、一方の対照的な氷のような場所にエダが一人で孤独のまま立っている。博士がエダの苦しさについて言っているのだとすれば、それほど僕とエリカの一対の関係は完璧に美しいのだと思う。エダも、口が裂けても言わないだろうけど、ほんとうは僕とエリカのような一対をつくりたいのではないか? その意味で、僕とエダは一つコインの裏表なのかも知れない。そうだとすれば、その新しい一対は、エダの場所ではなく、僕が立っている場所で形成される必要がある。僕がエダに吸収されるのではなく、僕がエダを吸収しなければならないのだ。やはり、エダをほっておいてはいけないようだ。

しかし、僕とエックハルト軍が南米チリの首都サンティアゴに到着した時、エダもメカトロン軍ももはやそこには居なかった。今度はどこに行ったのか。モリスは、メカトロン軍はイスラエル上空の空中基地に帰還し、エダはふたたび一人で姿を隠した模様だと伝えた。
エダは何を考えているのか。僕に自分の考えの大部分を読み取られたことで、今は僕に勝ち目はないと考え、しばらくは身を隠し、月への攻撃のあらたな機会を探るつもりなのか。
僕は、エダの行方を追跡すると共に、フジイ博士と相談し、『ヒト宇宙化計画』の具体化を急ぐことにした。
まず、破壊された地球人のための火星居住地域に対しては、至急に再建計画を立ち上げる必要がある。同時に、火星居住地域を対象としたテラフォーミングも開始する。地球人は、やはり空気を酸素マスクなどつけないで自由に吸いたいからだ。また、火星人との合体プログラムについては、予定通り進めること。身体を喪失しつつある火星住民にも焦りがあり、僕たちも悠長にしていられないからである。
月居住地域については、今回のメカトロン軍による火星攻撃について詳細に分析し、必要な対応策を決定する必要がある。動員されたのはアジェイが開発した兵士ロボットだけであり、エダが望む魔術的ロボットではなかった事は、エリカと僕が健在である以上、僕には既にわかっていた。以上の火星と月に対する対策として、僕はそれに必要な技術者たちを新・国連を通して世界各国から召集した。
火星については、僕は既にエレナと連絡を取った。僕が直接火星に行く必要があるからだ。火星人と地球人の合体プログラムは、僕とエレナが先頭に立たなければ進まない。
また、ノアとアスカには、『ヒト宇宙化計画』の研究部門の仕事として、『脳回路を使い分けるための研究』を依頼した。
エリカには、教育部門の仕事として、『電脳恋愛塾』の開設を依頼した。
さらに、僕は、キベとの間で『失われた動物たちの再生計画』を、タナ・メグミとの間で『異界移動計画』を、それぞれ推進することにする。
最後に、特にフジイ博士からつよく推薦されたサイード・S博士に対しては、サイード・S博士の宇宙飛行士の最後の仕事として、『分身創造計画』を依頼した。
以上は、いずれも『ヒト宇宙化計画』のコアを形成するものであり、非常に大切なものばかりだ。