第1話・第2話・第3話

第1部『スペーストンネル少年少女学校』

スペーストンネル少年少女学校では、生徒たちがスペースチューブ・ロボットスーツ・秘書ロボットの3点セットを巧みに使用し、スペーストンネルの通行技術を学び、「新しい姿勢の創造」に挑戦している。その成果により、生徒たちはこの学校が採用する仮説に従って脳機能を発達させ、「新しい身体」を形成し、心を高め、人類の「ニュー世代」として誕生できることになっている。
この学校の目的は、優秀な生徒たちを選抜し、新・国連が2035年に創設したエックハルト軍による情報戦争の戦士として育てること、さらには『ヒト宇宙化計画』を担い、地球再生と宇宙文化創造のための革命に参加させることにある。
そのためには、これまでの地球中心の発想に基づいた子供たちへの教育は、無効であるとまでは言わなくても、その大部分が有効性を失い、変更を迫られることになった。宇宙文化創造は、地球中心の発想では可能にならない事が既に判明しているからである。
たとえば、地上での戦争のノウハウを宇宙に持ち込む軍事戦略についても、宇宙では役に立たないことは、既に最近の数々の実戦を通して実証されている。実際、地球人の武器から発射される弾丸や光線などが、それが核化されているか否かには無関係に、そのすべてが宇宙人の身体を無傷で突き抜けてしまうことがわかっている以上、現在ではこの点について異論を差し挟む者たちも存在しなくなった。地球人が発明した武器が有効なのは、地球人と地球で誕生した生物に対してだけだったのである。
たとえば、地球人が撃ったピストルの弾が、なぜ宇宙人の身体を突き抜けてしまうのか。スペーストンネルが登場するまでは、実地では経験して知っていても、その理由は明確ではなかった。それが、スペーストンネル体験により、何よりも明瞭になった。つまり、実際に、人びとは、スペーストンネルの中で、宇宙人の本当の姿を、史上はじめて、その目で明確に確認できた。宇宙人は、スペーストンネルの中に現れるかと思えば、一瞬の内に消え去る。それは、なぜか? スペーストンネルは、電脳空間であると共に、四次元世界と五次元世界を結ぶ通路である。つまり、宇宙人は五次元世界に属していたのだ。宇宙人は、スペーストンネルの中で、五次元世界から四次元世界に顔を出している。われわれ地球人が四次元世界に住む住人であるのに対して、宇宙人は五次元世界に住む住人だった。四次元世界と五次元世界では、世界を構成する物質の組成が違う。したがって、当然ながら、四次元世界で通用する武器が五次元世界では通用しない。地球人が撃ったピストルの弾が宇宙人の身体を突き抜けてしまうのも、この理由からだった。仮にスペーストンネルの中に現れた宇宙人をピストルで撃っても、それは宇宙人にとっては自分を四次元世界に転写した仮想で現実ではないから、実際にダメージを受けることはないわけだ。つまり、次元が違うのだ。この事実が、スペーストンネル体験により、科学的に、公式に証明されてしまった。このような事態は、これまでの地球では経験されたことがなく、誰にとっても青天の霹靂に近いものだった。
こうして、教育の観点からも、戦争の観点からも、文化創造の観点からも、これまでにない新しい宇宙思想に基づく「新人類創造のための新しい訓練」が必要になったのである。
だから、スペーストンネル少年少女学校の生徒たちが「新しい姿勢の創造」に挑戦するとは、誰にもはじめての内容のため奇妙に聞こえるかも知れないが、以上の必要性から迫られた結果によるものである。宇宙思想の観点に立てば、いたって自然で必然的な訓練であることが誰にも理解できるようになる。
1 姿勢創造訓練とは?
シーン1 魚の姿勢で、泳いだり、川の急流に必死に耐えたりする生徒たち
シーン2 両生類の姿勢で、水中遊泳を楽しみ、また陸上歩行を楽しむ生徒たち
シーン3 鳥の姿勢で、空中を飛び、恐竜時代への回想にふける生徒たち
シーン4 サルの姿勢で、足も手のように自在に操る生徒たち
シーン5 全員が一体になり、巨大なイルカロボットの形成を試みる生徒たち
シーン6 遺伝子の二重螺旋の軌跡を描き、高速回転を繰り返す生徒たち
私の名はノア。17才。
私は、7才の時に、原因不明の理由で失明した。今日はお父さんのアレノに連れられて、はじめてニューヨークのセントラルパーク公園の地下にあるこのスペーストンネル少年少女学校にやって来た。私はもう普通の学校は退屈でつまらない。何をしても、すぐに飽きてしまう。初めはそれは私の我がままのせいで私がいけないのだと思っていたけど、お父さんの説明でそうではない事がわかった。この風変わりな学校には、世界中から私と同じようなおませな考えの同年齢の子たちがたくさん集まっていると聞いたので、すごく楽しみにしていた。それにお父さんの話しでは、もしかしたらここで私の目も見えるようになるかも知れないと言っている。本当かしら?
でも、たしかに、この学校は変わってる。お父さんも変わった人だから、どんなところに案内されるのかは予想していたけど、でもその奇妙さは私の想像を超えていた。まず、学校が何で公園の地下の大きな池の真下にあるの? 私は空気の流れ方から大体の様子がわかるけど、この地下の空間は巨大な大きさをもっている。何でそんな必要があるのかしら。
それに、この学校の床には平面がないよ。つまり、床が全部、何だか曲面や微妙な斜面で構成されている。だから真っ直ぐに歩けない。ちょっと余所見をしてるだけで、壁や柱に頭やからだがぶつかる。なぜ? 一体何のつもりなの? これだけでもこの学校は相当におかしいのだ。
私は、空気の流れを感じるために皮膚感覚を最大に開き、愛用の杖で床を軽く叩き、少しでも平らな面を捜し、あちこちフラフラと曲がって歩きながら、私の隣を同じようにフラフラ歩いているお父さんの気配を伺った。私は、目が見えなくても、人に手をつないでもらって歩くのは好きじゃない。出来るだけ一人で歩くことにしている。だって、その方が、人に頼らなくて済む。それに、実際に人が私の隣にくっついていると、私の空間知覚が鈍ってしまうのだ。その人が余分な空気の流れを私が知覚したい空間に与えて、空間の性質を変えてしまうからだ。だから、私は今だって、お父さんに頼らずに一人で歩いている。
但し、私には、人の気配を感じることも重要な手がかりだ。空気の流れの変化は物理的な変化だけど、人の気配は物理的なものだけじゃないから。気配さえわかれば、私は目が見えなくても、人とコミュニケーションが出来る。人が何をしているかはほとんどわかるし、何を考えているかも大体わかる。私は気配にすごく敏感。もちろん、そのために、私は出来るだけお父さんの近くを歩く必要があるけど。
でも、こんな習慣のおかげで、私の感覚は皮膚感覚を中心にすごく発達したみたい。お父さんも誉めてくれる。その辺の話しに詳しいお父さんによれば、私は目が見える子のように空間を認識しているのではなく、触覚で空間を見ているのだそうだ。見ている? たしかに、そうかも知れないわ。私は、いつも、歩きはじめると、自分が水に満たされた大きなプールの中を泳いでいる気がして、その時は自分の様子もプールの大きさも、みんな見える。私が少し動くだけで、私はプール全体の水の動きを感じるし、プールの壁がどんな感じなのかも感じる。今日の水は少し濁っているとか、壁には随分アカが溜まっているみたいとか。お父さんの説明では、私が感じるプールが私が存在しているこの空間という事になる。面白いなと思う。
とにかく、私はこの空間は奇妙な感じがするので、お父さんに聞いてみた。
「ねぇ、お父さん。何だかこの学校は変だよ」
離れたところから、お父さんが私の顔を覗き込んでいるのを感じる。私の顔が少しだけ熱くなった。私の顔は誰かに見つめられると熱くなるように出来ている。でも、お父さんは全然心配してないみたいだ。
「どこが変かな? 楽しいじゃないか」
「だって、床が平らじゃない。歩きにくい」
「この方がいいんだよ。心配ないよ」
「へぇ、どうしてかしら?」
お父さんの返事はいつもこんな調子で、トボケているのか、真剣なのか、わからない。お父さんの返事は何とも奇妙だ。
「だって、ここでは、人間がなぜ二足歩行する動物になったのか、いつも反省していられるからね。二足歩行は大切だよ。しかし、人間はその大切さをすぐに忘れてしまう。ここでは二足歩行がうまく出来ないから、かえって人間が二足歩行を始めた頃を思い出せるんだ」
「はぁ? 二足歩行? それがどうしたの?」
私はめげた。相変わらずのお父さん。面白いけど、まるでわからない。わからないのは私だけじゃない。
「ノアは、歩きにくいからって、別に這いつくばって歩きたいわけじゃないだろう? 這いつくばって歩くことは爬虫類や両生類に戻ることだよ。戻りたいわけ?」
「えーっ、爬虫類に戻るなんて、いやだ。私はただ真っ直ぐ歩きたいだけよ。でも、こんなところを歩くなら這いつくばるのもいいかもね」
「ノアだって普段は忘れてるよね。二足歩行の有難みを。でも忘れちゃいけない。二足歩行って、それは素晴らしいことなんだ。二足歩行が人間を人間として成立させた最大の条件だ。この事を忘れると、人間の現在もなくなるし、未来もなくなる」
「ふーん、人間の未来もなくなるの? そうなんだ!」
私は、ニコニコ笑ってみせた。よくわらないけど、感心したことにしておく。そうしないとお父さんの機嫌も悪くなるしね。
「そうだよ。二足歩行の有難みを忘れた人間は、宇宙環境に出て行った時、魚や両生類に退化する可能性が非常に高い。だって、宇宙環境は無重力に近いから、魚や両生類の姿勢と人間の姿勢は同じになる。無重力の中では、人間は歩きたくても歩けない。要するに、二足歩行を忘れる。でも、姿勢がすべてを決定するからね。ノアも学校で勉強しなかった? そのままの姿勢を続けていれば、手も足も不要になって、間違いなく人間は退化する。この学校の床は、そのことを子供たちに考えさせるためにつくられているんだ」
「へぇ、何だかすごいのね。私は魚になるのはいいけど、両生類に退化するなんて絶対にイヤよ。許して欲しいわ」
私は、自分が歩くのをやめてトカゲやヘビになった姿を想像してみた。トカゲやヘビだけはどうしても好きになれない。
「そうだろう?」
お父さんが私を見て、得意そうな顔をしている。
「でも、イルカになれるなら楽しそう」
「イルカは魚じゃないからね」
「そうか、イルカは特別だったわね。学校では、イルカは大昔シカみたいな小さな動物が海に還った姿と習ったけど。本当なの?」
「クジラも同じだよ。クジラも、大昔は動物だったのに、なぜか海に還った。まだ科学的には証明されてないけど、どうもそうらしいね」
お父さんの専門はロボットだから、生物には詳しくないみたい。
「ところで、誰がこんな奇妙な学校をつくったのかしら?」
「僕の友だちの建築家だよ。変わった友人で、自分は前世でロシアの第1世代の宇宙飛行士だったと真剣に考えている。その時に宇宙に10年間の長期滞在を経験し、僕がさっき言った理由で手も足もボロボロに萎縮させて帰還したそうだ。彼はその反省を生かす為にもう一度地上に生まれて建築家としてやり直し、この学校の床を斜めにしたと言っていた」
「すごい! と言うか、すごい妄想というべきか。お父さんの友だちは本当に変な人ばっかりね」
と、また感心して見せたが、依然として何のことかよくわからない。この学校の床を斜めにすることと、宇宙環境で二足歩行を保つこととは、具体的にどう関係するのかな? でも、わからないけど、お父さんの話しは面白いので、ついつい聞き役に回ってしまう。
そして、お父さんと一緒にいくつかのクラスを覗き、そこがどんな様子か説明を聞いて、もっと驚いた。何だか学校じゃないみたい。サーカス団の訓練場に来たみたい。生徒たちは変な動きばかりを練習している。これが、姿勢の訓練なの? 私が今案内されたこの空間は、巨大な体育館かな? 或いは水族館かな? 水の匂いがするから水族館かも知れない。お父さんの説明では、何本ものスペースチューブが迷宮のように張り巡らされていて、変わった形の空間や大きな水槽の中を、私と同じ年くらいのたくさんの子たちが奇妙な格好をして空中に浮かんだり、変なポーズで休んだり、泳いだりしているそうだ。
私は、経験がないことについては、お父さんの説明だけで推測するしかない。とにかく、奇妙の一言。はじめて聞くことばかり。でも、面白そうだ。私は好奇心が人一倍つよいから、私も早く自分で動いて試してみたい。自分で少しでも動けば、お父さんの説明がどういう事か具体的にわかる。それにしても、二足歩行の有難みって、一体何だろう? それが、こんな奇妙な練習でわかるのかしら?
お父さんが私に言った。私の反応はお父さんにもすぐにわかったみたいだ。お父さんは、いつの間にかすぐ私の隣に来ていた。
「面白そうだろう? さっそくノアも試してみよう。こんな光景はノアも聞いたことがないはずだ」
「もちろんはじめてよ。一体全体、みんな、何してるの? これがお父さんが言っていた姿勢創造訓練だと思うけど」
「その通り。ノアにもうまくなって欲しい」
「何のために?」
お父さんは、ここで一息ついた。かなり真面目な話しのようだ。
「もちろん、ノアが人類のニュー世代の一人になるためだよ」
「ニュー世代って?」
「そう。ニュー世代。僕たちの世代がその準備をして、ノアたちの世代が世界の残された問題を解決するんだ」
「どんな問題?」
お父さんがゆっくり話し始めた。
「地球の救済と、正しい宇宙開発の推進。いまの人間のやり方のままでは、地球も滅ぶし、宇宙開発のあり方もダメだからね。問題が多すぎるんだ。せっかく成功した火星開発でも、すぐに火星の人間たちと地球の人間たちが対立してしまった。特に地球の人間たちが未熟だった。その未熟さをつかれて火星の人間たちに地球に対する 絶縁宣言を出されたわけだけど、地球側からしたら、これ以上の地球文化に対する侮辱はないよ。火星の人間たちは、地球文化に重大な欠陥を発見したと主張している。もうこれ以上一緒にはやれないというわけだ。でも、お父さんとしても、彼らの主張の方が正しいと考えている。だから困っているわけだ。僕は地球人だからね。他の惑星に行った地球人は全員が死んでしまった。居住が成功したのは火星だけ。月は地球から一番近いのに、成功しているとは言い難い。この学校の校長のイカイ先生の話しでは、今では地球文化の評判は他の惑星でもさんざんだそうだ」
ほんとかしら? 私ははじめて聞いた話しだ。
「そんな評判が異星人たちから届いているの?」
「イカイ先生の報告ではね」
めずらしくお父さんがガッカリしている様子だ。こういう時は、お父さんは言わないけど内心ではすごく怒っている。私も何だか元気を失くしそう。
「でも、お父さんは相変わらず変なことを言うね。そんな難しいことが私たち子供に出来るわけがないじゃない」
「お前たちニュー世代ならできる」
「どうして?」
「いまノアの目の前で生徒たちがやっている訓練で、彼らは0重力と1重力の間を自由に往来している。それで、新しい姿勢をつくり、脳の側頭葉を発達させるんだよ。ノアは目が見えないけど、心配ない。同じ動きがやれる。触覚が発達してるから、それで補える。補えるどころじゃなくて、多分ノアの場合は、脳のもっと別の開発もやれる。あとでイカイ先生から詳しく説明してもらうけどね。側頭葉を発達させることがニュー世代の最初の条件になるんだよ」
「そくとうよう?」
側頭葉がキーになるなんて、はじめて聞いた。本当にお父さんの話しには、奇妙な話しが多い。
「そうだよ。でも、本当のことなんだ」
「お父さんは何だか自信たっぷりね。私にはますますわからない」
ここでお父さんは、なぜか声を大きくして言った。誰かに聞かせてるみたい。近くに誰かいるのかしら?
側頭葉は耳の上の方だ。
人間の大脳皮質はもうこれ以上進化しない。
新しい人類は、側頭葉を発達させた、お前たちのようなニュー世代から誕生するんだ。
この新しい世代だけが地球を救える。
火星の人間たちとケンカしなくても済む。
宇宙に進出して、新しい宇宙文化も創造できる。
そうしなければ、地球は滅ぶ。
宇宙進出も明白な限界を迎える。
「そうなの? でも、相変わらずさっぱりわからないよ。お父さんたちの世代と私たちの世代と何が違うの?」
お父さんが私の頭の耳の上に触りながら言った。
「脳の機能が大きく変化するんだよ。これまでの人間の脳は地球の1重力用だからね。側頭葉が発達すると、宇宙の無重力環境にも対応できるようになる。新しい思考と新しい感情も生まれる。新しい人間の姿をイメージできるようになる」
「ホントかしら? 何だか、すごく難しそう。それゃー、面白いかも知れないけど」
お父さんがまた元気になってきた。
「絶対に、面白いよ。ノアならできると思ってここに連れてきた。ノアの場合は、見えなくなっていた目も回復するかも知れないしね」
「えっ、私の目が治るの?」
「その可能性があるそうだ。この学校の訓練では、人間の感覚の全体を拡張することになる。その過程で、ノアの場合にはダメになっている視覚野にも、これまでと違った新しい刺激が与えられる。だから、可能性はあるとお父さんも感じた。そして、それだけじゃなく、ノアにはもっと別の能力が目覚めるかも知れないと、この学校では期待されている。そう思っているのはお父さんだけじゃないんだよ」
「それで私をここに連れて来たのね?」
「そうだよ。この学校にノアに特別なことが起きる可能性があなら、そのチャンスを逃す手はないだろ?」
「でも、どうしてそんなことわかるの? お父さんもやったの?」
「うん。実は、お父さんもこの学校の最初の卒業生なんだよ」
「えーっ、ビックリ。お父さんがこの学校の卒業生なんて、知らなかった。お母さんにも聞いてないわよ」
これには私も本当に驚いた。
「お母さんははちろん知ってるよ。でも、その時期が来たらノアに話そうと、お母さんと相談していたんだ。今日、やっとその時が来たというわけだ」
「そうだったんだ」
「この学校で、お父さんにも、少しだけだけど、特別なことが起きた。だからわかるんだ。きっと、ノアにも起きる。多分、もっと凄いことが」
「ホント? それなら嬉しいけど」
「でも、お父さんは大人になってから始めたから、側頭葉がうまく発達しなかった。もう硬くなっていて、うまく膨らまないんだよ。だからノアたちに期待している。優秀な生徒も、もう何人か出ている」
「ずいぶん奇妙な話なのね。質問がたくさんあるわ。でも、お父さんがどうしてもと言うなら、私もやってみる」
「もうすぐイカイ先生がここに来るから、ノアに紹介するよ。あそこで面白い格好でもう一人の人と手を繋ぎ合っているのがイカイ先生だよ」
お父さんが指差す方向に見当をつけて顔を向けたら、確かに何か特別な気配を出している人が二人いるのがわかった。私には見えないけど、わかる。暖かい、いい感じだ。私がじっとしていると、私のからだの表面が波立ってきた。私は気持ちが昂揚するとすぐにこうなる。よく鳥肌が立つって言うけど、あれに似ている。あの二人は親しい関係だと思う。恋人同士? 夫婦かな? でも、何してるのかしら? 大人なのに、手を繋いだりして。お父さんの話しでは、二人で一つの独楽をつくるみたいにして、ものすごい勢いで回転しているという。へぇー、回転してるんだ。目が回らないのかしら?

第2部『現実(4次元時空)と異界(5次元時空)』

1 現実と異界は、一つの場所に重なり合うようにして存在している
すでに21世紀初頭において、並行宇宙や三次元空間のくぼみについて提唱していた理論物理学者のリサ・ランドール博士のグループが予言していたように、異界(五次元時空)が存在するとすれば、それは現実(四次元時空)とは別の空間に存在しているのではない。同一の場所において、現実に重なり合うようにして存在していると考えられる。従って、現実と異界の間には、必ず現実の側から感知できる「境界面」が存在するはずだ。
僕たちが新・国連の『ヒト宇宙化計画』で採用している考え方でも、異界は確実に存在し、そこには異界の住人たちとして、その住人たちのサイズはその都度異なるとしても、死者たち・失われた動物たち・異星人たちが生息しており、異界はスペーストンネルを介して「境界面」を露出させ、現実に連続している。
スペーストンネルとは、電脳空間上に開発された空間であり、
僕たちのグループが開発した現実の世界と異界をつなぐ通路のことだ。
この通路の特殊な場所に、死者たち・失われた動物たち・異星人たちが姿を見せる。
僕は、新・国連の『ヒト宇宙化計画』の教育局に属するスペーストンネル少年少女学校の校長もやっている。また、教育局のリーダーたちや、エックハルト軍の指揮官以上の兵士たちを相手に講義も行っている。この講義は、ニューヨークのスペーストンネル少年少女学校で、週一回、朝から夕方までみっちり7時間行われる。参加者は、世界中から集まってくるが、毎回50人ほどだ。現実(四次元時空)と異界(五次元時空)の構造について、二つの世界の重なり具合について、その「境界面」に侵入する方法について、 さらに僕たちが『ヒト宇宙化計画』で使用するスペースチューブ・ロボットスーツ・ネットロボットの基本技術の3点セットについて、実演つきで詳しく説明するのだ。
その理解が充分でなければ、特にメタトロン軍との戦闘においては致命的な遅れをとってしまう。3点セットを開発したのは僕たちのグループだし、それを新・国連に納入しているのもエリカの会社だから、僕にも当然その責任があるわけだ。僕は、彼らを一定の知識レベルに高めなければならない。そして、彼らの中から優秀な人材を見つけ、世界中で展開されている実戦に送り出さなければならない。
実は、僕は、自分の本業で忙しいため、もうこの先生の役割は他の人に代わって欲しいとフジイ博士に頼んでいるが、まだ代役が見つかっていない。僕が心身ともに覚醒するのは、何といっても世界中の紛争現場で心の病気を抱えて苦しんでいる子供たちと接したり、最大の知性が要求される情報戦争の渦中にいる時だ。僕は子供たちのために役立ちたいし、エダたちとの情報戦争でも絶対に勝利しなければならない使命を背負っている。だから、それに集中したいわけだ。しかし、まだしばらくは学校や講義との兼務も仕方ないようだ。もちろん、教育の方で、思いがけないユニークな人物や生徒に出会うことは多い。それはそれで大きな楽しみだ。最近では、ノアとアスカという、将来を期待できる二人の優秀な生徒に出会った。僕たちのスペーストンネルも完成品ではない。日々進歩しなければならない。どんな点を改良すべきなのか、そのヒントをそれらの出会いが与えてくれることも多い。
2 講義1 スペースチューブ
スペースチューブとは、体験者に多様な姿勢形成を可能にすると共に、誰もがスペーストンネルを擬似的に簡単に体感できるように工夫された空間装置だ。
姿勢形成の仕方で、人びとは五感や体性感覚を統合し、スペースチューブをスペーストンネルとして擬似的に体感でき、場合によっては異界の住人たちに接近することができる。スペースチューブの中で、子供たちが狂喜して喜ぶのも、一部の大人たちが時々神妙な顔つきをするのも、彼らがスペーストンネルの中で失われた動物たちや異界の住人たちに出会っている感覚を経験するからだ。もちろん、それはあくまで擬似的体験だ。スペーストンネルが実際に稼動しているわけではないので、その事実が起きているわけではない。だから仮想メガネをかけても、何も見えない。ただ、何かを具体的に感じる、という世界である。
いずれにしても、スペースチューブは、それらの異界の存在を予感させると共に、情報社会の中で失われている人びとの全身的身体感覚を回復させることができる。現代世界では、携帯電話をはじめとする情報ツールや電脳空間がおそろしい勢いで発達してしまったので、人びとの現実に対する感覚は衰えるばかりだ。そのため、それは回復される必要があり、現実感覚をしっかりさせた上で、「現実と仮想の差」をきちんと判別できる能力が要請されることになったのだ。その基準になる全身的身体感覚が回復されていなければ話しにならない。だから、スペースチューブは、この全身的身体感覚を回復させるための装置であるという点で、世界的に大きく注目された。
さらに、人間が宇宙に出て自らの進化を実現するためには、人間は一度過去に所属する必要がある事、次に、その過去からのリターンとして未来へのジャンプを設計する必要があることもわかってきた。そうしなければ、その計画は挫折する可能性が高い。その関係で、スペースチューブが可能にする「多様な姿勢構築」による「動物への回想」というワークショップもまた、僕の講義やスペーストンネル少年少女学校の必須科目になっていた。

動物たちの過去を知るほど、未来への正しい一歩が約束されるのだ。そのために、人びとは暇を見つけては夢中になってスペースチューブの中に入り、「多様な姿勢構築」にトライするようになった。まるで、イスラム教徒が一日に5回、敬虔な祈りをメッカのある方向に捧げるのと同じように。スペースチューブの登場で、人びとの生活に新しい習慣がはじまったのだ。
僕は、スペースチューブを、2000年にその最初の形態を開発し、2015年に日本の宇宙開発企業・繊維メーカー・ゲームメーカーなどの参加を得てその完成された形態を開発した。それ以来、スペースチューブはシンプルな形式で現実に異次元空間を出現させることができる空間装置として、世界中から注目されるようになった。
実際の体験の様子は、スペースチューブの中に入ってみるとよくわかる。スペースチューブの形状を決定する要素が中に入った体験者の動きであるため、空間と身体が一対一で即応する空間として、母の胎内に帰ったような懐かしい感覚がする。それに加え、スペースチューブ内部の空間の形状は、信じられないほど美しい。そこでは、本来は一つの空間として同居できないはずの凸と凹の曲面が、何重にも美しく交差している。異界の住人たちが登場する「境界面」はここに出現し、 スペースチューブほど、人びとに「異界に対する感覚」を教えるのに好都合なツールはない。そして、実際に、姿勢形成のレベルが上がれば、「異界の住人」たちと遭遇した感覚が味わえるのだ。この奇妙な感覚については、とても口では説明できない。その空間の形状は、女のからだのように、複雑な凸と凹の組合わせによって構成されるエロティックな美しい曲面に似ている場合もある。
とにかく、スペースチューブの中で遊んでいると、ふだん使わなくなってしまった筋肉も使うので、自然に汗をかく。健康開発のためにもお勧めなのだ。そして、日常では体験できない感覚がたくさん脳に甦るため、その脳波を利用して、いままでにない新しいタイプの「感覚体感ゲーム」も開発できるようなった。
こうして、スペースチューブは、身体に対する「次世代ケアテクノロジー」や「異界体感装置」として現在も発展を続け、ロボットスーツとネットロボットと共に世界中に出荷されている。
3 講義2 ロボットスーツ
さらに、僕たちのチームは、2020年に、ロボット開発者・生物学者・脳科学者と組み、スペースチューブを利用したロボットを、着脱可能な、しかも「心」をもつ、一人用のロボットスーツとして開発した。このロボットスーツは、場所に限定されずにどこでも使用できる「一人用の携帯型スペースチューブ」という発案で、スペースチューブが個人用としてロボット化され、知能化されたものだ。
デザインを担当したのは、工業デザイナーのクワンチ。イタリアデザインに憧れるトルコの人気デザイナーだったクワンチを、彼が日本アニメの大ファンだったことから僕と仲良くなり、僕が開発チームに引き抜いた。クワンチは僕の考えをよく理解してくれたため、スペースチューブのセンスを引き継いだロボットスーツのデザインを実現するのに最適だった。
人びとは、ロボットスーツを、姿勢支援ロボットとして生活の中で違和感なく使用することで、より身近にスペースチューブを体感できるようになった。ロボットスーツは、動物たちの姿勢を含む多様な姿勢形成を実現できる。誰もが自分の身体の拡張感を達成でき、魚・両生類・鳥・四足動物・サルなどの姿勢をつくって遊べる。たとえば、四足動物でも、「馬」と「牛」の姿勢や歩行の微妙な違いもつくり出せる。そして、その姿勢形成の度合いに応じて、使用者には「異界の住人たち」についても実感できる。
そして、最も重要な点は、使用者がロボットスーツを、自分の毎日の身体動作を記憶し、「データベース」としても管理できるようになったことだ。この「データベース化」から、ロボットスーツを育て、ロボットスーツに「心を持たせる」という発想が生まれた。
つまり、使用者は、ロボットスーツを育てることが出来、その育て方によって、使用者の分身ロボットとして成長させることができるのだ。つまり、ロボットスーツは、記憶した使用者のすべての動作内容を「再現」でき、そのために、使用者が疲れている時には、自分では動かず、ロボットスーツだけを動作させて自分の代わりを務めさせることが出来る。使用者は力をぬき、ただロボットスーツが動くのに身を任せていればいい。こうして、ロボットスーツは、使用者を「支援」できる。
さらに、使用者は、「データベース」の一定の増大を条件として、まるでロボットスーツに自分の潜在意識を読み取らせるかのように、自分が望む新しい姿勢をロボットスーツに「開発」させ、提案させることができる。つまり、「データベース」が増大すると、使用者がこの「データベース」から「或る動き」を「再現」させる場合、使用者のかつての動作Aと動作Bの中間に相当するような「A+B/2」のような「間違った動き」をする事がある。要するに、ロボットも間違える。
そして、この間違いに対し、ロボットスーツの選択が使用者にとって快いものに限って、使用者が拒否せず、受け入れ、それに従った動作に身を任せ、それも使用者の動作記憶として「データベース」に追加していくと、「データベース」に重大な変化が起きるのである。この追加分についても一定の増大が条件になるが、使用者にとっては、この追加分の蓄積は、使用者の想定外の動作群として、自分も知らない自分の無意識の欲求が「開発」されたかのように、感情移入できる。この感情移入のレベルは使用者によって異なるわけであるが、使用者の感想として、原則として次のように言えるようになってきた。
事実は、この場合には重要ではない。
ロボットスーツによる間違いであっても、少しも構わない。
肝心なことは、錯覚であれ、私がそう思えた、ということだ。
つまり、ロボットスーツが、このような「データベースの改良」を続けることで、私が思いもしなかった、懐かしさを感じる、思いがけない動作を、使えば使うほど、大量に、私に提案してくるようになった。
この提案の意味するところは何か? この事態は、ロボットスーツが、私の潜在意識に侵入し、私の隠された動作欲求を「開発」してくれていると、私には思える。当然、そう思える度に、私のロボットスーツへの愛着は大きくなる。そして、私がロボットスーツを可愛いと思うほど、ロボットスーツの提案も増え、私の好みの機微をついてくる。
私の感覚では、ロボットスーツには「心」が芽生えて私に対応しており、私が愛せば愛すほど、ロボットスーツの「心」も成長する、としか思えない。
私のロボットスーツは、私と対話するための「心」を持ち、
私の欲求を開発する「知能」を持ったのだ。
このような「心」や「知能」が本物であるかどうかについては、もちろん議論の余地が残されている。しかし、いずれにしても、2020年までは、このような関係を人間と持つロボットは、世界中のどこにも存在しなかった。
つまり、使用者は、錯覚であれ、愛せば愛するほどロボットスーツの性能を高めることが出来、ロボットスーツを自己の分身として、「愛」の精神をもって育てることが出来る仕組みが登場したのだ。「愛」の関係である以上、使用者は、最初に、ロボットスーツに自立ロボットとしての将来の独立を約束する必要がある。しかし、それを保証することで、ロボットスーツは使用者の潜在願望の発掘にますます精を出してくれる。その結果、「心」をもつロボットとしてロボットスーツの「存在」も、保証され、確約される。そして、「心」を持つ存在の宿命として、当然のことのように、ロボットスーツが自分の独立を求め始めるわけである。しかし、使用者には当初からその欲求を受け入れる準備が出来ている。
こうして、使用者とロボットスーツの関係は、親子や、或いは恋人同士のような関係に変化し、一時期お互いに利点を得た後に、親が子の旅立ちを祝福するように、恋人同士がお互いに新しい出発があればそれを祝福するように、ロボットスーツも使用者に祝福されて独立を果たすことができる。独立後のロボットスーツは、その能力を「自分のために」使える。
このようなロボットスーツは、いまでは世界中で最先端の知的ロボットとして評価されるようになった。さらに、その応用として、ロボットスーツは他のロボットスーツとの連結もできるため、単独で行動しているロボットスーツに働きかけ、複数の集合として、共同運用することもできる。つまり、これまでにない、信じられないような新しい共同作業も可能になってきた。それらは、全く思いがけない事態の出現である。
連結されたロボットスーツが構成され、その利用がはじまった。
イルカロボットという巨大ロボットスーツも登場をはじめた。
その応用範囲は計り知れず、ロボットスーツを、人間の身体用ではなく、床や壁や天井や椅子として使用した、
人びとを包み込む新しい建築空間や居住空間の設計や、
家具のデザインもはじまった。
ロボットという単体の機械が「心」をもっただけではなく、
人間が生活するための空間や椅子やベッドたちも「心」をもちはじめたのだ。
こうして、人間が最初に抱いているロボットに対する異物としての警戒感は、僕たちのロボットスーツの登場により大幅に軽減された。何しろ、人間は全く思いがけないパートナーをロボットスーツとして持つと共に、自分を取り巻く環境についても、全く思いがけない事態を迎えることになった。自分の周囲が、「心をもって自分と対応としてくれる環境」として、大きく変貌していくからである。このようなロボットスーツは、いまではライバル社も増えてきたが、一大ブランドとして圧倒的シェアを誇っている。
4 講義3 ネットロボット
最後に、僕たちのチームは、2025年に、ロボット開発者・生物学者・脳科学者の他にネット技術者たちも加わり、電脳空間で働くネットロボットを開発した。
そのデザインは、エジェが担当した。エジェは、クワンチの紹介で知り合い、ナノテクノロジーを駆使した精密ロボットのデザインが得意だ。僕たちはエジェについて、数年前に人工関節のデザイナーとして世界的に有名になったため、その名前をよく知っていた。
そして、とうとう、僕が、チームと共に、ロボットスーツの動きとネットロボットの動きを関連づけることに成功したため、仮想の体験にすぎなかったスペースチューブ内部での異界体験を「新しいリアルな体験」にすることに成功した。つまり、僕たちは、ついに電脳空間の身体化に成功した。つまり、仮想の世界が、仮想のままで、現実の世界とは違う新しいリアリティを持ち始めたのだ。
電脳空間には、これまでも従来型の検索ロボットとして多くの電脳ロボットが活躍していた。しかし、ロボットスーツとネットロボットのこの関連づけにより、電脳空間は身体化され、電脳空間は「比喩ではなく空間の名に値する空間」に昇格し、生まれ変わった。ネットロボットも、電脳ロボットの「最終版」と呼ばれることになり、ロボットスーツと同様に知能を持つ存在に昇格した。それ以来、正式に、ネットロボットが往来する電脳空間の通路が「スペーストンネル」と呼ばれるようになった。
こうして、人びとは、現実ではロボットスーツを、電脳空間ではネットロボットを、
それぞれ自分の二つの分身としてもつことができるようになった。
とにかく、これで現実と異界の間には、これまでにない新しい関係が成立した。あくまでも仮想に過ぎなかった異界の住人たちに出会うという体験も、新しいリアリティを獲得することになったからだ。
電脳空間とは、誰もが知るように、ブレーン・マシン・インターフェイス(BMI)と仮想メガネをツールとして開発された脳ネットワーク内部の新しい空間のことだ。しかし、ネットロボットの成長により、各人の電脳空間も、身体的に成長するようになった。たとえば、「道」がなかった電脳空間にも、ネットロボットが通過する度に、誰も歩いていなかった山道に少しづつ道が形成されるように、「道」が形成される。ネットロボットが休んだり寝たりする場所が「椅子」や「ベッド」になり、風雨をしのぐための「家」になる。「家」がたくさんできれば、そこが「街」になる。スペーストンネル内での行為も、「あやふやな行為」から「手ごたえのある行為」へと、精度を増す。
したがって、人びとは、競って、ネットロボットを育てるようになった。ネットロボットの性能がそのままそれを所有する人びとの能力を測る新しいバロメーターになり、人びとの生活にも大きな影響を及ぼすようになったからだ。
たとえば、ニューヨークに住む僕は、ネットロボットのモリスを送り、東京に住むエリカに会いに行ける。その速度と精度はすべてモリスの性能に影響される。そしてモリスは僕本人ではないが、知能が高いため、限りなく僕に近い存在になっている。僕は、モリスを通じて、ニューヨークに居ながらにして東京にも同時に存在することになる。エリカも、「僕=モリス」を仮想メガネで見て、或いは立体映像として現実の空間に物質化される「僕=モリス」に触れ、ほぼ僕として接することができる。これで、現実の制約を超え、僕はまさにスペーストンネルを往来して世界中に僕の分身を派遣できる。スペーストンネルを通過するモリスの速度も、いまでは音速に近づこうとしている。
こうして、世界中の人びとが、
電脳空間を結ぶスペーストンネルを通じて他人の「脳」や異界の住人たちの「脳」に侵入し、
それらの潜在意識とコンタクトし、彼らの存在のあり方を把握し、
多様なコミュニケーションを開始するようになった。
これらのコミュニケーションは、「限度」を越えてしまったという意味で、明らかにそれまでのコミュニケーションのレベルを超えている。しかし、もちろん、電脳空間で発生する「事件」が、そのまま現実の「事件」になるとは限らない。新しい関係で結ばれたとはいえ、別の世界であることに変化はないからだ。たとえば、電脳空間で僕が死んでも、そのことで現実でも僕が死ぬとは限らない。ただし、電脳空間を操作することで現実に「事件」を起こすことはできるし、その逆もまたできる。したがって、「現実と電脳空間における出来事の差を見分ける能力」もまた、ネットロボットを成長させる能力と共に特別に重要なものになった。
こうして、僕とエリカの会社によるスペースチューブ・ロボットスーツ・ネットロボットの3点セットの普及活動から、いまでは世界中の多くの人びとが、毎日家の中でスペースチューブで遊び、身体に対するケアに精を出すと共に、出かける時にはロボットスーツを衣服として違和感なく着込み、また電脳空間でネットロボットを操作してスペーストンネルを自在に往来し、飛翔するようになった。それにより、コミュニケーションも、戦争も、愛も、大きく変化した。
5 モトコとの対話~コミュニケーションの改革
モトコは、僕の親友の一人。実は、モトコこそ、電脳空間の最初の住人として世界的に有名になった電脳戦士兼ハッカーだ。もっとも、モトコにはモトコ伝説が世界に普及していて、何人ものモトコが存在しているうわさもある。いずれにしても、僕のネットロボットが電脳空間に入った時に最初に出会ったのが、僕が知っているモトコだった。
初期には、現実を恐れて電脳空間にのみ住んでいたけど、僕と出会うようになってから再び現実にも姿を見せるようになった。現在はイスタンブール在住。僕は世の中の大きな転機を感じるたびに、預言者の風貌をもつようになったモトコと話し合うようにしている。彼女の考えは僕には飛び切り面白い。
「ねえ、モトコ。今の時代の特徴は簡単に言うと何だろう?」
「電脳空間が登場することで、誰もが自分の身体が不安になったわね。そして、誰もが情報を得たい。また、誰もが自分を表現したい。身体・情報・表現の時代ということかしら。たしかにこんな時代ははじめてね」
「人間は変わった?」
「変わらない。人とつながりたいというコミュニケーションの欲求は、今も同じね。電車の中や、歩いている時も、女の子たちは必死でケイタイメールを打っている。彼女たちのネットロボットはその度に大忙しよ。男たちもさかんにあちこちにコンタクトを始めた」
「うまく行っているの?」
「ダメみたい。皆が自分のネットロボットをもって、それをケイタイメールで操作して、技術は発達したけど、相変わらず人の心はうまく読めないようね。素晴らしい成功例は、私が住む電脳世界にはあまり届いていない」
「たしかにそうだね。エリカも、よく人間の力はまだ幼いってこぼしているよ」
「もっと人と人のつながり方が改革される必要があるのよ」
「つながり方が改革されれば、コミュニケーションの中身も改革される?」
「半分はね。ネットロボットの進化はすさまじいけど、それで好きな人に気持ちをうまく伝えられるわけではないわね。トラブルの解決の仕方もうまくない。でも、電脳世界がもっとすごくなることは誰もが予感している」
「一人の人間がものすごい数の人間たちに接するようになったからね」
「昔は、身近な世界で100人と付き合うのが精一杯だったのに、いまでは世界中の1万人を相手にして平気になったわ」
「その成果は?」
「文化の多様性に対する理解が圧倒的に進んだ。世界中のあらゆる国と友だちが出来たので、友だちが住む国とは戦争したくないのよ」
「それで戦争はなくなる?」
「効果はあるわ。時間はかかるけど」
「他には?」
「脳の計算能力がものすごくアップした。その一方で、量的な情報洪水がコミュニケーションの質をアップさせないことが誰にもわかってきたから、無用な幻想も大幅に減ってきた」
「それは大事な成果だね。ところで、これから必要になるコミュニケーションの改革について整理すると、どうなるだろう?」
「まず、人との対話の改革。つまり、相手と一体化する技術をもっと磨かないとダメね。一体化が人間の永遠の課題。一体化の仕掛けはいまでも誰もが大好きね」
「特に女がその仕掛けがうまい。愛の専門家だから」
「次に、モノとの付き合い方の改革。モノも人間の分身になれば、捨てると痛い!、とモノに言われて、簡単に捨てることができなくなるわ」
「人間がこれまで捨ててきたモノを全部集めると、現在の宇宙の二倍の大きさになるという試算があるよ」
「そして、ロボットとの新しい付き合い方。せっかくロボットスーツがこんなに普及するようになったんだから、もっとうまく利用しないとね」
「これなしには、人間の進化はあり得ないからね」
「自分の身体をどう改造して、結局自分はどうなりたいかという、想像力を一番試される生体改造プランも、いよいよ一般向けプログラムとして登場したわ」
「これが一番難しそうだ。でも、これで身体生活者としてどう生きたいかを決定できるし、自分が旅立つ宇宙の方向も決定できるわけだから、とても大事だよ」
「応用問題として、記憶の中に住む人も含めて、自分が会いたい人が住む場所を感じる力」
「僕にも、それが一番切実なテーマだ」
「会いたい人の見つけ方や、その人が住んでいる世界への侵入の仕方や、新しい合体の仕方」
「誰と、どうやって合体するか。それが、実際に宇宙に出た時に最初に重要になる仕事だからね」
「私たちが、多様な可能性をもつポスト人間として進化できるかどうか。新しく開発する姿勢の多様さによって、死んだ人や異星人との出会いも可能になるわけだから。以上のメニューで、人間のコミュニケーションは大幅に改革されるはず」
「モトコは、ここでそれをずっと考えてきたんだね」
「考えるのに一番いい場所だから。脳に住んでいる感覚にとても近いわ。とにかく、スペーストンネルが開発されたことの意義は素晴らしいわ」
「タイムトンネルを開発することは難しい?」
「タイムトンネルは成立しないわね。人間は時間を支配することができないから。でも、空間は自由に何層でも重ねることができる。それがイカイが発見したことね」
「結局、40年前に理論物理学者のリサ・ランドール博士が予言していた五次元空間論が大きなヒントになったね」
「そうね。リサ博士の考えを実用化したあなたのスペーストンネルで、人間は異次元空間に侵入できるようになった」
「それもこれも、僕がモトコが電脳空間に住んでいるのを実際に確認したことから、全てが始まったわけだよ。僕にはモトコは恩人だよ」
「私も、イカイに発見されて嬉しかったわ」
「僕も。モトコの存在が僕の理論の正しさを実証してくれたわけだから。スペーストンネルによって、死者の世界にも、その存在を信じる者は訪問できる。異星人との遭遇も、セットできる」
「もうすぐ、あなたが会いたがっている火星のエレナにも会いに行けるわ」
「えっ、エレナって、誰? 僕が会いたい人?」
「いまにわかるわ」

第3話『ノアとアスカ』

1 宇宙ダンス
サチは、スペーストンネル少年少女学校のスタッフの一人で、高い知性と感性を兼ね備えた魅力的な女性だ。ほんとうはエリカがこの学校の副校長で僕の相棒のはずだが、本業が忙しくて世界中を飛び回っているため、時々しかニューヨークに来れない。サチはその代理というわけだ。肩書きはマネージャー。大学で専攻したのは文化人類学とデザイン史。この学校の広報も担当している。優秀な人材だ。
但し、サチの唯一の欠点は、何でもリクツで物事を知りたがること。僕の仕事は日本的感性の表現を土台にしているため、説明は口ではなかなか難しい。それでも、この学校の目的や授業について彼女にわかるように説明しないといけないので、僕にも勉強になっている。彼女が理解できなければ、外部への広報にも支障が生じるわけだ。
それで、サチが、就任時の多忙な時期を過ぎ時間が出来たので僕と議論したいと言い出した時、いまこの学校で優秀な成績を挙げているノアとアスカにも参加を頼んだ。彼らの実演を交えて議論すれば、僕の説明も簡単になるからだ。
サチが、約束の時間に、巨大体育館に運動着姿で現れた。彼女もやる気で、張り切っているのだ。
「ねぇ、イカイ。私、あなたの『宇宙ダンス』という本で、人間は動物たちの記憶も脳の中に保存しているという章を読んだの。私が勉強した文化人類学の観点からも面白いわ。でも、はじめて聞く話しだし、わかるような、わからないような。何とも不思議な話しね。今日はまずそこから話してくれる?」
「いいよ。誰にも一番面白い話題かも知れないね」
「そもそも、宇宙ダンスって? ステキな名前だけど、一体何かしら?」
「スペースチューブを使った姿勢構築や、スペーストンネルの使用技術のこと。魚の姿勢からはじめて、両生類・鳥・サル・人間・ポスト人間の姿勢をつくって遊ぶんだ。面白いよ。訓練の最後に、それぞれ自分で想像して、ポスト人間の姿勢づくりに挑戦する。僕たちの『ヒト宇宙化計画』では、人間の進化をどうやって自然の摂理にのっとった形でデザインできるかが勝負になるからね。だからこういう遊びが大事になる。いまからノアとアスカに実演してもらうから、よく見てね」
ノアとアスカは、いまではこの学校の一番優秀な生徒だ。二人とも、からだの使い方のセンスが抜群にいい。僕も、もう彼らには適わない。僕は二人のスペースダンスの特徴を、アスカが運動系、ノアが構造系と名づけている。運動系とは、何も考えないでその場の発想から直感的にスペースチューブと一体化して動くタイプ。運動の開発に適している。つまり、見たこともないすごく面白い運動をつくり出す。構造系とは、静かに考えながらやるタイプ。特徴は見た目の運動の面白さよりも、体験から掴んでくる思考の豊かさにある。とにかく、ノアが体験談として語る内容には、僕だけではなく、この学校の教授たちや医者たちも注目している。
一方のアスカは、スペースチューブとスペーストンネルの巧みな操縦技術が評価され、イルカロボット隊の隊長に内定している。ノアは、脳科学者たちと仲がよく、脳科学の次世代のホープということになっている。二人とも、入学してまだ2年目なのに、既に「側頭葉」を膨らませている。期待されているのだ。
サチも目を丸くして二人の実演の様子を見ている。僕もあらためて感嘆して見ている。二人とも成長したものだ。
「へぇ、すごい動きをするのね。面白いわ!」
僕はサチの方をふりかえった。
「よく二人の様子を見てね。いま二人は、ここからはよく判別できないけど、スペーストンネルの中に入るよ。二人はこれから、異界の住人たちとの出会いにトライするんだ」
「えっ、まさか。ほんとなの?」
「もちろん、ほんとうだよ」
「へぇ、変わってる。奇妙な格好ね。でも、懐かしい感じもする。遠い昔の記憶の世界を演じているわけ? でも、あんな奇妙な格好をすることで異界の住人たちと出会うなんて、私ははじめて聞いたわ。もちろん、子供だけじゃなくて、大人にも面白いわね!」
サチはしきりに感心している。自分でもやってみたくて仕方ないという様子だ。「サチもやってみる?」
「私にも出来るの?」
「もちろん。身体を持つ者なら誰でも。もちろん、出来の差はあるけどね」
「身体の動きって、不思議なのね」
「そうだね。宇宙文化の創造を考える時の僕の出発点は、いつも身体なんだ」
「知ってる。あなたはいつも身体から話しを始めるわね」
「そう。脳操作や遺伝子操作も含め、身体が改造される速度は現在もすさまじい。でも、身体は環境と共に存在しているから、身体が改造されればその影響を環境が受ける。環境が変化すれば身体もその影響を受ける。身体に対する過去の考え方の欠点はここにあった。環境から独立して、身体を身体だけで扱ってきた。そんな環境から切断された身体は、身体とは言えない」
「その方が科学には扱いやすかったから。これまでは、身体は科学の合理的思考の対象としては馴染まなかった」
「だから、人間は身体のことをまだ何も知らない。それは大変なことだよ。デザインも専攻したサチにはこの辺のことはわかると思うけど?」
「それはわかる。身体のことを知らなければ、身体が使うモノのデザインも、身体を容れる容器としての建築も、身体の維持に必要な情報も、全部できない。その設計はもう一度見直される必要がある。当然ね」
僕はこの点を強調して、次のように言い直してみた。
身体が不明なら、身体のために何かしたくても、それは難しい。
サチもそれに答えた。
「たしかに! その前に身体についてもっと知る必要が出てくるわ」
「身体が、像として明確である内はまだよかったよ。でも、それは環境が一定の範囲で保たれてきたこれまでの話しにすぎない。いま環境は、誰もが知る環境問題に象徴されるように、人間の営みによって破壊を加えられ、大幅な変動を始めている。そして、人間の身体も、複雑に変化している」
「そうね。明日の身体がどんな姿をしているかは誰にもわからなくなった。とても複雑ね。油断できない。大変な時代になったのよ」
「身体と環境の関係は、もっと相互依存的なものになっているよね。身体を知るためには、その関係性の中に答えを求める必要がある。身体を身体だけで扱うことはできないんだ」
「だから、あなたが考える身体生活のデザインは、環境との関係からはじまるわけね」
「そうだよ。いまアスカやノアがやっているように、スペースチューブを使ってその関係を体験するわけ。それが宇宙ダンスの出発だよ」
「面白いわ。でも、そんな関係から出発するなんて、大変な遠回りのように思えるわね」
「古代はそうじゃなかったと思うけど。その後怠けてきたわけだから、仕方ないね」
「身体ほど身近なものはないから、人間は身体のことは自明として、身体について考えるのを止めたのよ。そのツケがとうとう来たというわけね」
「そうだね。身体問題の象徴ともいえる生命科学や脳科学が大流行している世界の状況を見ても、これまで自明の対象として扱えた身体が、ふたたび謎に満ちた新しい主役として躍り出てしまった」
「たしかに、生命科学や脳科学の流行はいまも続いているわ」
僕は、最初に、このような提案を、2006年に日本の宇宙機関との共同研究の中で行った。10年以上、何の反応もなかった。しかし、人間が月居住を開始するようになった2023年前後から、状況が大きく変化した。僕の提案が理解されるようになったのだ。僕はNASAをはじめヨーロッパやアジアの宇宙機関からも講演を依頼されるようになり、ブリュッセルで知り合った新・国連の宇宙開発部の研究者を通してフジイ博士に紹介され、正式に採用されて、僕の提案が『ヒト宇宙化計画』の基礎を形成するまでに発展した。欧米の研究者たちは、「日本人の発想は相変わらず面白いね。宇宙生活の設計に君の考え方が不可欠になった」と、掛け値なしで誉めてくれた。
2 身体からはじめる
アスカとノアが実演から戻り、議論に加わった。
ふだんは忙しくてゆっくり話す時間がなかったので、僕も二人と話せるのは嬉しい。二人とも、僕の顔を見るたびに「先生、質問があります」と言っていた。僕にはそれに答える充分な時間がなかった。
サチがアスカとノアにウィンクした。
「二人ともお疲れ様! すごく面白かったわ」
最初にノアが質問をはじめた。アスカも何か言いたくて仕方ないという顔をしている。
「私が先生に聞きたかったのは、どうしてこれまでやってきた宇宙開発が役に立たなくなったのかということ。本当なの? その理由は何?」
アスカも続けた。
「先生、僕も同じ質問。それを聞きたかったんだ。だって、それはすごく重要だからね」
サチも続けた。
「私だって、本当の理由は知らないわ」
「それはね、さっきもサチに言ったけど、宇宙開発を支えてきた考え方が身体と環境を分離した古いものだったから」
ノアはそんな説明ではわからないという顔をしている。
「身体と環境の関係って? 難しいことはわからない。私にもわかるように説明してください」
一時は機密として隠されていたが、これはもう今では誰に喋っても構わない。
「みんな、この話しは知ってる? この学校にゲストで時々授業に来てくれる、新・国連のサイード博士の話し。無重力環境の宇宙に長期滞在した宇宙飛行士たちの身体が、帰還後には骨粗しょう症がひどくなった感じで、ひどい場合は廃人になってしまうということ」
ノアが答えた。
「知らないわ。サイード博士はよく覚えてるけど。若い時に宇宙飛行士だった人ね。それで博士も身体が悪くなったの? いつも車椅子に坐っていたから、なぜかしらとは思っていたけど」
「そう。博士も宇宙漂流の経験者で、たった30分の漂流なのに、それで身体がボロボロになってしまった」
三人とも同時に言った。
「なぜ!?」
「それは、地球の1重力環境の中で育った人間の身体には無重力環境が馴染まなかったからだ。考えてみれば単純なことだね。無重力環境の身体をケアするためには、地球の1重力環境の中で培われた身体ケア技術は役立たない。宇宙漂流によって、その答えが明白になった。そして、宇宙ステーションの中でも同じで、いくら自転車のペダルを漕いでも無駄なんだ。身体機能を維持する事はできない。徐々に衰えていく。回復することはない。 つまり、とても重要なのに、身体に対する配慮は後回しにされていたわけだ。その内に慣れるものと甘く見られていた。でもそれが間違いだった。つまり、それが環境との関係を欠いた身体に対する考え方だった。この点が見落とされていたわけだ」
アスカが言った。
「じゃ、どうすればよかったの?」
「最初から地球環境を人工で持ち込むべきだった。或いは、無重力環境の身体をケアするための全く新しい方法を考え出すべきだった。それができないから、宇宙飛行士たちにはマッチョな身体訓練が必要になった。でも、それは無効。それに、宇宙に住むのはそんな宇宙飛行士たちじゃない。何の訓練もしていない普通の人たちだよね」
ノアが言った。
「わかったわ! それでこの学校では過重力訓練とかがまったくないのね」
アスカも続けた。
「僕もわかった。いつまで立ってもその訓練が始まらないから変だと思ってたんだ。この学校は宇宙での戦闘要員も育てる宇宙学校でもあるから、当然それがあると思ってた」
「そうだね。君たちが毎日やってるのは、もっと簡単。ロボットスーツを使用した0重力と1重力の間を往復しながら行う姿勢創造訓練だ。あくまで1重力がベースキャンプ。それなら、ふつうの人にも出来るし、ふつうの人のためになるよね? 変な筋肉をたくさんつけたりしないで。君たちもいつまでもふつうでなければダメなんだ。君たちがふつうの人たちのモデルになるためにね」
ノアが口をはさんだ。
「先生、わたしもわかったわ。だから先生は、最初の月面歩行の証言で有名になったオルドリン宇宙飛行士を評価するのね? わたし、先生の本を読んだの」
「その通り。今だって、彼の証言は面白いよ。1/6の月の重力下では走るとうまく止まれず、身体が斜めに立っている、とか言っているからね」
予想通り、ノアの感想は鋭いし、面白い。
「つまり、オルドリン宇宙飛行士が発見したことは、重力が変われば人間の姿勢も変わる、ということね? 姿勢は重力の関数なんだ。そして、その姿勢の違いで、感覚も変わってしまうのね。すると、人間はどうなるのかしら?」
「そうだ。ノアの考えは面白いね。だから、いきなり人間が人間じゃなくなるのではないとしても、少なくとも重力を変えることで人間の新しい姿勢をつくれる、ということになるよね?」
サチも興奮しているようだ。
「これで全部わかったわ! あなたの<姿勢は文化創造の母胎>という持論だけど。ロボットスーツを使ってふつうの人たちを0重力と1重力の間を往復させ、それで魚からポスト人間の姿勢形成に挑戦させるということね? それで、ふつうの人を新しい人間につくり替えようというわけね?」
「そうなんだ。ノアが言う通り、姿勢は重力の関数だよ。この公式を使えば、人間が宇宙環境で地球文化以上の宇宙文化を創造するために必要な<新しい姿勢>づくりに挑戦できるようになる。もし人間が、宇宙では地球文化を超えたいと真剣に望むならの話しだけどね」
アスカが言った。
「もちろん、僕たちは宇宙に出ることで地球文化を超えたいわけです。だって、そのためにこの学校に来たんだから」
「そうだね。とにかく、僕たちにはハードな身体訓練は一切不要だ。かえって邪魔になる。ロボットスーツにただ馴染めばいい。ロボットスーツが僕たちの新しい皮膚になるんだ」
ノアが聞いた。
「整理すると、こういうことでいいんですか? 単純に言えば、地上の身体を宇宙環境に合わすな、地上の身体に合う新しい環境をつくれ、ということ? そういうことなら、確かに先生の言う通りで、これまでの考え方と正反対になると思います」
「そういうことだね。だからこそ、僕たちは身体から始める必要があるんだ。現在の自分の身体を尊重し、その声をいつも聞いていないとダメなんだよ。環境の事を一番よく知っているのは身体だからね」
僕は、整理のために、少し声を大きくして、もう一度言ってみた。
注目すべきものは身体で、身体は世界100億人の毎日の関心事。
サチが言った。
「それがあなたの得意のセリフね! 私は最初にそのセリフを新・国連の宇宙デザイン会議に参加した時に聞いたのよ。感動したわ。やる気があるなって。インパクトを感じた。それでどうしてもヒト宇宙化計画に参加したいと思ったの」
「ありがとう。光栄だよ。つまり、いま100億人の身体が、遺伝子テクノロジーや脳科学やロボット工学で改造され、生身の身体が変化している。そして、人間が初期の宇宙開発時代を終わって本格的に月や火星に住むようになったいま、身体に対するケアもこれまでのものでは不充分であることがわかり、新しい対策が必要になっているわけ。急ぐ必要があるよ。だって、月や火星では、もう新しい子供たちも生まれているわけだからね」
「あなたは早い頃から指摘していたわ」
「でも、その頃は、サチも事情を知ってるけど、僕の提案は一人のアーティストの提案としてしか受け取られていなかった。要するに彼らには僕の提案はどうでもよかった」
「あの頃は宇宙に行った民間人はとても少なかったし、世界全体がまだ保守的だったわね。世界が大きな変わり目にあることは誰もがわかっていたけど、具体的に何をすればいいのか。要するに誰にもわからなかったのよ。新しいアイデアはなかった」
「アーティストが考えることと科学者の考えることは別世界として区別されていた。両者はすごく近づいているのにね」
「それが、人間の月居住や火星居住が全部ひっくり返してくれたというわけね。ステキだわ!」
「急に面白い時代になったからね。それまで偉そうにしていた科学者やプロデューサーたちは、ほぼ全員が表舞台から消え去った。うそみたいだ。代わって新しい世代が登場した。その交代のドラマもすさまじかった」
「あなたの新しい身体論が新しい科学の基礎を築いたのよ。いまでは当たり前だけど」
「僕が何より嬉しかったのは、僕と同じように考えている若い科学者やアーティストたちが世界中にたくさん存在していたことを発見できたことだ。僕は孤独じゃなかった。それまでは辛かったからね」
「彼らがあなたを認め、新・国連にあなたの新しい舞台をつくったのよ」
「そのおかげで、ノアやアスカのような新しい子供たちの世代も登場するようになった」
「素晴らしい変化だわ」
3 身体の動きの中に蓄積された動物たちの記憶
身体に対する重要な問いとして、次のものがある。

ヒトはなぜ二足歩行という姿勢を選択することになったのか?
そして、ヒトはなぜ動く存在なのか?
生命の進化史において人類が最終ランナーであるとはとても思えず、そして地球環境崩壊後の延命方法として惑星移住が真剣に求められる宇宙時代に入っているという点で、人間が「人間の次の姿」を予想しながら生きることがますます重要になっている。「人間の次の姿」とは? もちろん、多くの試行錯誤の研究開発が世界中で行われているとはいえ、いまの時点では、まだ誰も決定的な成果を出せていない。しかし、僕には或る程度見当がつけられるようになった。それを実証するのが、アスカやノアたちの世代だ。
次の日も、サチが僕の部屋に質問があると言ってやってきた。僕は、アスカとノアにもまた参加してもらった。
「あなたの、<ヒトはなぜ動くのか?>という問いもシンプルで面白いわ。それも、あなたが若い頃から舞踏家でもあること、ダンスの動きの意味を考えてきたこと。それが助けになったわけね。あなたはダンスに感謝する必要があるわ」
「ほんとにそうだ。僕の場合は、舞踏家として、ヒトはなぜ動くのかという問いから出発して、人間の次の姿を想像してきたからね。ヒトが動くのは、僕の経験では、本質的に動くこと自体が面白いからだ」
「それは、いろんなスポーツや、いろんな身体芸術を見ていても、よくわかるわね。日常の生活の中ではきびきびとした動きが好かれることや、速く走ってみたり、ゆっくり散歩してみたり、わざとバランスを崩して遊んでみたり。ヒトは動くこと自体を楽しんでるわ」
「でも、なぜ動くことが面白いのか? あらためて問うと誰にもわからない。だから僕は舞踏家として見当をつけてみた。それは、一つの動きは他の動きを自然に誘うことを発見したからなんだ」
「私は人類学やデザインが専攻だったからダンスには詳しくないけど、その発見があなたの出発点であることはよくわかるわ」
「一つの動きの中で発見される楽しさは、その動きの中で閉じることはない。まるで見えない法則があるかのように、動きは動きを求めている。その動きの連鎖は無限の選択肢をもっている。そして、どうやら、一つの動きには一つ以上の記憶が対応している。そのために、ヒトは多様な動きの組み合わせで多様な記憶の世界を再現できる。これが、なぜ動くことが面白いかの一つの理由じゃないか? だって、記憶の追跡は面白いし、人間の普遍的欲求だからね」
「いつからそう考えるようになったの?」
「30代に、一人だけで踊らなければならない辛い時期があった。その頃だった。ある時、自分の動きの中にヒトとしての動きとは思えない動きが混じっていることを発見した。その時、突然、言葉では表現できないなつかしさに襲われた。僕たちの動きにはこれまで知らなかった未知のステージが既知のステージの裏側に畳みこまれていることに気づいた。有史以来、人間がダンスを愛してきた理由は何か? その秘密がここにあると思った」
「それがあなたの大発見よ。そんなことを言い出した舞踊家が他にいるのかしら? 私は聞いたことがないけど」
「僕は、ダンスしている時、この動きは、ヒトのものとは思えないと感じる瞬間がたびたびあった。そして、なぜかそういう時が特別に楽しい。人間は骨格の構造上、動物たちの動きの記憶を宿し、それを脳が保存している。脳も、反射・情動・理性の機能を担うための、爬虫類の脳・哺乳類原脳・新哺乳類の脳という、三層構造からできてるよね。そのために、二足歩行をする人間の動きと、そうではない動物たちの動きの差も判別できる」
「素晴らしいわね。あなたの経験に似た話しは他にもたくさんあるわ。洞窟時代の人間は、地球上のいろんな地域で洞窟の壁に動物の顔をもつ人間の絵をたくさん描いていた。動物に特別の親近感をもっていたからで、描くという行為が文化的儀式のようなものなっていたに違いないのよ」
「そうなんだ。現在の僕たちの身体の中にも、いろんな動物の記憶が残されている。それを感じる時が、とてもなつかしく、また嬉しい気持ちになる。僕はその楽しさをもっと追求したくて、わざわざ少し関節をずらして新しい動きの工夫をしたりしている」
「わかるわ。ダンサーが本能的に奇妙な動きを試みるのはそのためね」
「自然にそうなるんだ。追求したい感覚が動きによってどう広がるのか、判断はそこに集中される。それがダンサーのひそかなもう一つの楽しみになっているはずだ。人間として生まれてからの記憶だけではなく、動物たちの進化史を動きの組み合わせを通じて辿ること。それが面白い」
「私もやってみたい! 私にもできることなの?」
「もちろん。サチにも、誰にもできる。人間の共有の財産だからね」
4 生命の進化史に属さないと人間の進化も進展しない
それまで大人しく聞いていたノアが、また喋りはじめた。
「先生の話は面白いけど、でも、それは何のため? そんな進化史を辿ることにどんな意味があるの?」
アスカも続いた。
「僕もそれを聞きたい。僕たちはこの学校で、結局何を勉強していることになるのかな?」
僕もずっとその問いを考えてきた。何のために? 進化史を辿ることにどんな意味があるのか? そして、僕がそう問うたびに、僕の内部の動物が僕に何かを囁きかけるようだ。僕は、その理由を、次のように考えるようになった。
生命の進化史にうまく属さないと、人間の進化もうまく進展しない。
それは人間の動きの面白さ自体が示唆することで、進化史をうまく辿れた時ほど、
過去からのリターンとして、新鮮な未来へのステップを与えられる。
すぐれたダンサーという存在も、このリターンの振幅が大きいダンサーのことではないか?
ノアが不思議そうな顔をして言った。
「人間が最初の二足歩行に成功した時、どんな思いで立っていて、どんな思いで歩いたのかしら?」
「ノアはどう思う?」
「さぁ、どうかしら。すごく大変だったことはわかる気がする。でも、もっと知りたい」
「僕には、人間とは何かという問いと、二足歩行とは何かという問いが、いつも一緒だった」
「私のお父さんも同じことを言ってたわ。人間について考える時は二足歩行という観点が大事だって。だからお父さんと先生は仲良しなのね?」
「そうだね。僕はお父さんともよく話すよ。二足歩行によって、人間は脳をさらに大きくすることができた。二足歩行するからこそ、坐るという休息の姿勢も新しい意味をもち、その姿勢を確定するために椅子をつくるというデザインの行為も始まった。サルも坐るけど、さすがに椅子はつくらない。二足歩行とは、骨格の構造からして、物理的にも奇跡だったし、文化の観点からも大きな奇跡だった」
サチが口を出した。
「そうね。デザインの原点もまさにそこにあるわ」
「でも、人間はそんな奇跡の意味をすっかり忘れてしまった」
ノアが叫んだ。本当に勘の鋭い子だ。
「またわかった! 私が最初にこの学校に見学に来た時、お父さんも同じことを言ってたわ」
「何て?」
「だからこの学校の床は平らじゃないって」
「実はそうなんだよ。斜めの方が気がつくことが多いよね? とにかく、いつからか人間は、二足歩行が当たり前で、それ以外には何もないと思い始めた。でも、人間の一つ一つの動きにはその頃の記憶も含めて膨大な記憶が宿り、人間は毎日そのような動きを、多様に、無意識に選択して、それぞれの行為を組み立てている。その関係から、人間はことあるごとに理由もなくなつかしさを感じたり、なつかしさにまつわる趣向を美の体系として育てたり、そしてまさにその趣向が人間の一人一人の個性を異なったものとして形成することに役立っている」
サチがまた言った。
「要するに、個性もその趣向にも関係しているのね?」
「個性は、考え方などの知的な相違だけじゃなく、行為の無意識の選択の違いからも来ている。或る解剖学者が言っていたように、個性は脳ではなく身体に宿っている。喜怒哀楽や誘惑や拒絶を表現するための話し方や目つきやポーズや、歩き方も、人によりみな違い、個性を決定する重要な特徴になっていて、それぞれにみな遠いルーツをもっている。こんな大切なことを、人びとは現代社会の忙しい日々の生活にまぎれて忘れている」
黙って聞いていたアスカが言った。
「僕も、人間が最初に二足歩行に成功した時の喜びを味わってみたいな。そして、大地の上を自由に移動しはじめた時、身体を動かすためにどんな苦労をしていたのか、その経験を反芻してみたいよ」
ノアも言った。
「多分、たった一歩を踏み出すためにも、信じられないほどの苦労があったに違いないわね? 私たちがそれを知ることができれば、現代人が失くしたものが何で、進歩したものが何なのか、もっと感覚的に知覚できるようになるはず」
僕は続けた。
「そうだよ。僕たちは、忘れてしまった動きの全体性というものに出会う時、いまでも我知らずに深い感動に誘われてしまう存在なんだよ」
サチが独り言のように言った。
「ダンスの本来の役割って、この動きの全体性を表現することなのね? 優れたダンサーって、結局はこの点を知ってるダンサーのことね?」
5 心が発生する現場を体感する
夜になっても、サチの質問が続いた。
「生徒たちのスペースチューブ体験の反応はどうなのかしら?」
「それはすごいよ。キャーキャーというすさまじい歓声。スペースチューブの中に入ると出てこない。いろんな反応の子がいて面白い。動物に変身している子もいれば、立ったまま何もしないでじっと考えている子もいる」
「その多様さが面白いわね」
「子供たちの反応は、大人に比べたら抜群に多様で、多彩。僕もいつもビックリする。特にアスカとノアの動きが抜群だ。ほかにも面白い子はたくさんいる。親たちがスペースチューブの中のわが子を見て驚くのもむりはない。面白い動きをしているからね。うちの子は天才かしら?、ってよく聞きに来るよ」
「生徒たちは何を感じているのかしら?」
「正確にはわからない。まだ小さい子供たちもいるしね」
「でも、スペースチューブ体験が面白くてやめないということは、社会にそれを満たすものが欠けているということね」
「身体に飢えている、ということ。子供たちのアンテナは敏感だから」
「それにしては子供たちは公園で遊ばないけど?」
「公園の遊具にはもう飽きてしまった」
「結局、現代社会で身体の新しい経験が要請される理由は何かしら?」
「仮想化の促進。そして、人工身体の時代と宇宙時代に対応するため。この理由しかないね。身体感覚が豊かでないと、現実と仮想の区別ができない。必要な正しい判断ができなくて大変なことになる」
「人間は自然に戻る必要があるということ?」
「それはできない。仮想をダメと言って現実に戻るのではなく、その区別をよく知って、仮想と現実をミックスして新しい現実を作りだす方向に進むこと。区別できないままやると、ごちゃごちゃになるだけ」
「その区別が大事ということね。わかったわ。スペースチューブで感覚の革命が起こせるかも知れなくて、それが今日の生活に役立つだけでなく、明日の生活の準備にも役立つということね? いろんなプログラムをつくれそうね」
「うん。僕もそんな気がする」
サチはしばらく黙って考えていたが、また喋りはじめた。サチの質問は正確だ
「もう一つだけ聞きたいことがあるの」
「何?」
「脳科学者のイリエ博士に会ったかしら?」
「フジイ博士の親友のイリエ博士のこと? うん、行ってきたよ。抜群に面白かった! イリエ博士は、心の発生について実にユニークな仮説を立てている」
「どんな?」
「人の祖先が道具を使用してモノを動かし始めた時、道具が身体の一部になると同時に、身体も道具の一部として客体化され、この客体化された身体を動かすために脳に心が発生したのでは、という仮設」
「どう思った?」
「すごいよね。僕の考えが裏付けられる気がする」
「あなたも、客体化とか身体の拡張とか、冷静な心とか、よく言っているわね」
それは、僕がダンスの中でずっとそのことを感じてきたからだ。ダンスでは自分の身体を客体化できるほど自由な動きをつくれる。まるで臨死体験みたいだ。身体を抜け出して身体を自由に操る感覚。その身体は、自分のものなのに、異物。でも不気味ではない。その身体を、時間とともに冷静になっていく心が見つめている。だから、自由に扱える。そして、その時に身体に満たされるエネルギーが面白い。使えば使うほど増えるから。エネルギーが身体と空間の間で大きく循環をはじめる。僕の内部が外部になり、外部が僕の内部になり、内部と外部の入れ子構造ができてくる。僕は自分でも信じられないほど変身する。僕が空間の中に住みはじめる。
「それは観客として見ていてよくわかるわ。優れたダンサーは空間と共に踊るわね」
「空間と共に、という感覚がとても楽しいんだよ」
「だから、あなたはその楽しさをふつうの人にも味わって欲しくてスペースチューブに注目したわけね」
「そうなんだ。スペースチューブはふつうの人を即席のダンサーにする装置だよ」「ここがスペースチューブの一番重要なポイントね」
「スペースチューブの中では、誰もが、身体を預けることでスペースチューブと一体化できる。スペースチューブの大きさも、ロープでつながれたスペースチューブの強度も知覚できる。まさにスペースチューブは第2の身体。ロープは新しい手足。誰もが自分がスペースチューブになった感覚で動ける。スペースチューブとして新しく目覚め、スペースチューブとして新しく立ち上がる感覚」
「その時に新しい心が目覚めているということね」
「その通り。僕たちがスペースチューブの中で姿勢構築を繰り返し、いろんな動物たちの姿勢を回想し、スペースチューブと一体化していく時、僕たちの新しい心が育つ。具体的には、脳の側頭葉が肥大化をはじめる」
「これからの脳進化のバロメーターは側頭葉なのね?」
「うん。イリエ博士のサルを使った実験でも、道具をうまく使いこなしている時のサルの側頭葉の変化を計測すると、その部分の脳波が活性化されている」
「あなたも感じるの? その点が重要だけど」
「もちろん。すごく感じるんだ。だから僕はイリエ博士の仮説が面白い。スペースチューブの中で一体化を体験している時に一番敏感に反応している脳の部分は、側頭葉。ほんとに或る音がするし、手で触ると膨らんでいることがわかるんだ」
「大脳皮質はどうなの?」
「特に変化はない。大脳皮質の進化はもう極限まで来ている。人間が人間を超えるために必要な力は側頭葉で発達する。そう考えていい気がする」
「あなたの耳の上が膨らんでいるのは何だろうと、いつも不思議だった。アスカとノアもそうだし、何人かの生徒たちも同じね。膨らみ始めた女の子の胸みたい。とにかく、ここに私たちが求める新しい感覚の秘密がありそうね。スペースチューブで新しい心が発生する現場を体感できるのね!」